『日本共産党の百年』読書ノート その5


春日庄次郎らの権力問題の軽視

第8回大会前の綱領討議での春日らについての記述。ほぼ『八十年』と同じ記述。

会議では、春日庄次郎ら5人の中央委員と2人の中央委員候補が、当面する革命を反独占社会主義革命とする意見に固執し、決定に反対しました。アメリカ帝国主義の侵略性の過小評価革命論での教条主義を批判され、かれらは反論不能におちいりました。

『日本共産党の百年』p23s2

…会議では、5人の中央委員と2人の中央委員候補が、当面する革命の性格を…反独占社会主義革命とする意見に固執し、この決定に反対しました。かれらは、その主張の根拠にアメリカ帝国主義の侵略性の過小評価独占資本主義国の革命は社会主義革命しかないとする教条主義があると批判され、かれらは反論できなくなっていきました。

『日本共産党の八十年』p157

アメリカ帝国主義打倒は、革命課題=権力問題であるにもかかわらず、それを軽視したという点を春日らは批判されたので、正確には「権力問題抜きの教条主義」と『七十年』のように記述しないといけない。

春日庄次郎と4人の中央委員、2人の中央委員候補が、あくまで日本独占資本が主敵でその支配を打倒するのだから反独占社会主義革命とする見地に固執し、この決定に反対した。春日らの主張の根底には、アメリカ帝国主義の侵略性の過小評価、独占資本主義国の革命は社会主義革命しかないとする権力問題ぬきの教条主義があると批判され、春日らは反論できなくなっていた。

『日本共産党の七十年・上』p293

革命における「国会で安定した過半数」

『百年』は、第8回大会の箇所で、61年綱領を次のように説明している。ほぼ同じ表現が『八十年』にもある(『八十年』p159,p160)。

(61年)綱領は、また、日本の社会のどんな変革も「国会で安定した過半数」をえて実現すること、社会は国民多数の世論の成熟にともなって段階的に発展するという立場をつらぬきました。

『日本共産党の百年』p23s5

61年綱領を次に示す。
「国会で安定した過半数」は「革命の条件をさらに有利にすることができる」と書いている。そもそも61年綱領は、権力獲得の"方法"については規定しないことにしているのだ。だから「国会で安定した過半数」は"それができれば一番いいよね。そうなるよう努力しよう"という位置づけである。
逆に言えば、「国会で安定した過半数」がなくても権力掌握の可能性はあるという規定なのである。敵の出方によって国会が開催できなくなった場合でも、革命をあきらめるなという規定にしている。
なお、新しい民主主義革命は、独占資本の打破という点で社会主義的だが、農業や中小企業はまだ資本主義が残るので、社会主義的変革と区別している。だから、「連続的に」「急速に発展」という規定になっている。

この闘争において党と労働者階級の指導する民族民主統一戦線勢力が積極的に国会の議席をしめ、国会外の大衆闘争とむすびついてたたかうことは、重要である。国会で安定した過半数をしめることができるならば、国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具にかえ、革命の条件をさらに有利にすることができる。

独占資本主義の段階にあるわが国の当面の革命はそれ自体社会主義的変革への移行の基礎をきりひらく任務をもつものであり、それは、資本主義制度の全体的な廃止をめざす社会主義的変革に急速にひきつづき発展させなくてはならない。すなわちそれは、独立と民主主義の任務を中心とよる革命から連続的に社会主義革命に発展する必然性をもっている。

日本共産党綱領(1961年7月27日決定)

現綱領を次に示す。
「国会で安定した過半数」を占めるならば、統一戦線の政府・民主連合政府をつくることができる、と規定している。
また、民主主義的変革による独立・民主・平和の日本の段階と、資本主義を乗り越える次の段階である社会主義的変革は、まったく別の段階と規定されており、連続的でも急速に発展させるものでもない、とされている。

日本共産党と統一戦線の勢力が、積極的に国会の議席を占め、国会外の運動と結びついてたたかうことは、国民の要求の実現にとっても、また変革の事業の前進にとっても、重要である。
 日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占めるならば統一戦線の政府・民主連合政府をつくることができる。

民主主義的変革によって独立・民主・平和の日本が実現することは、日本国民の歴史の根本的な転換点となる。

日本の社会発展の次の段階では、資本主義を乗り越え、社会主義・共産主義の社会への前進をはかる社会主義的変革が、課題となる。

日本共産党綱領(2020年1月18日改定)

61年綱領における君主制廃止の段階

『百年』の第八回大会の箇所で、「[61年]綱領は…『君主制を廃止』する問題を将来の目標におき」と記述している。
本noteの「(2)第2章部分」の「『党史』刊行時点での天皇条項に関する見解」が同じ論点なのでそちらを参照のこと。
https://note.com/aikawa313/n/nbe8ec3a8c8e7#7bc18841-4e06-4e1f-83c1-56f9b75d3c1a

(61年)綱領は、民主主義を徹底する立場から、「君主制を廃止」する問題を将来の目標におき、当面の改革の内容を定めた行動綱領には、これをふくめませんでした。

『日本共産党の百年』p23s6

(3)第3章部分

中ソの核実験は防衛的だとの見方は誤りだったと自己批判

『百年』で共産党は、60年代に中ソの核実験は防衛的だとの見方をしたことは誤りだったと自己批判した。
その原因は、核抑止力論やソ連覇権主義に対する批判的認識が不十分であったから。

(60年代)当時、党は、ソ連が再開した核実験(61年8月)を、アメリカの核脅迫に対抗して余儀なくされた防衛的なものとみなす態度表明をおこないました。
これは、党として、核兵器使用の脅迫によって国の安全を確保するという「抑止力」論にたいする批判的認識が明瞭でなく、ソ連覇権主義にたいする全面的な批判的認識を確立していないものでの誤った見方でした。同様の態度表明は、64年と65年の中国の核実験のさいにもおこなわれました。

『日本共産党の百年』p24s4

また、73年に中ソの核兵器がすでに防衛的なものではないと見方を変えたが、その際に、"60年代の中ソの核実験にたいする党の見方は正しかった"としたことも誤りだったと自己批判した。

ソ連によるチェコスロバキア侵略、中ソの軍事衝突などの事態が起こるもとで、党は、73年、この見方をあらため、アメリカを戦後の核軍拡競争の起動力としてきびしく批判すると同時に、ソ連や中国の核実験も際限のない核兵器開発競争の悪循環の一部とならざるをえないものとなっているという評価を明確にしました。

ただ、73年の態度表明には、60年代に党がとったソ連や中国の核実験にたいする態度は「誤っていなかった」とする限界がありました。

『日本共産党の百年』p24ss4-5

党としてソ連や中国の核実験への態度に問題点があったことは事実ですが、党は原水爆禁止運動には党の評価をおしつける態度はとらず、核兵器全面禁止などの基本目標で団結する態度を一貫してつらぬいてきました。

『日本共産党の百年』p24s5

〇現在から振り返れば誤りだった(当時はやむを得なかった)と言ってるのか、それとも、当時からそういう批判的認識を持つことが可能だったにもかかわらず見破れなかったということなのか。
〇当時、社会党の「いかなる国の核実験にも反対」論を、社会主義国と米帝国主義と同列視し、米帝を免罪するものだと批判していたが、それも間違いだったということか。
〇"アメリカが戦後の核軍拡競争の起動力であった"(いわゆる米帝起動力論)も間違いだったというのか?
〇この自己批判は、原水協や平和委員会などの活動にどういう影響を及ぼすことになるのだろう。『百年』公表後約1週間後に原水禁世界大会が催されたが特段話題にもなっていないようにみえる。
〇なお、『百年』では、部分的核実験停止条約にたいする党の態度、原水禁禁止運動にかんする党の態度、については従来どおり正しかったものとしている。

論点も多岐にわたるので『前衛』などで解説論文をはやく出してほしいものだ。

参考資料:日本共産党第9回大会(1964.11)にたいする中央委員会の報告

1961年秋に、アメリカ帝国主義による核戦争の挑発の危険を阻止するためにソ連がやむなく核実験を再開したとき、米日反動勢力はブルジョア宣伝機関を総動員し、「核実験はごめんだ」という広範な人民の素朴な感情を最大限に利用して、ソ連を「平和の敵」とする反ソ・反社会主義の大カンパニアを組織した。社会党指導部その他もまた、ソ連核実験への抗議とこれを基本原則として定式化した「いかなる国の核実験にも反対」というスローガンを原水禁運動におしつけ、運動を帝国主義の核戦争政策との対決の方向からそらせようとした。わが党は、これにたいして、核兵器の全面禁止に一貫して反対しているアメリカ帝国主義の核戦争準備と核脅迫の政策こそが、世界平和をおびやかし、ソ連に防衛上核実験を余儀なくさせた根源であることを明らかにするとともに、核戦争の脅威や核実験による放射能被害の根絶を願う日本人民の要求に正しくこたえる唯一の道として、核実験の禁止、核兵器の貯蔵、使用の禁止をふくむ全般的軍縮協定の締結を要求することを主張した。同時に、当時の情勢のもとに核実験反対という日本人民の願いを正しく有効に結集し、帝国主義の核軍拡計画に現実に一定の打撃をあたえる要求として、核実験停止協定を即時無条件に締結せよという要求を強調した。わが党のこの主張はソ連の核実験再開がひきおこした意見の相違にもかかわらず、帝国主義の核戦争政策とたたかう方法で平和民主勢力全体の団結を維持し強化する路線を明らかにしたものであり、原水禁運動の統一と前進のために、積極的な役割をはたした。この要求は、日本の原水禁運動の共通の要求となっただけでなく、すべての参加国代表も承認した、第8回原水爆禁止世界大会の要求となった。

また、1963年7月に、米英ソ三国の部分的核停条約が締結された時、フルシチョフに代表される現代修正主義の国際的潮流は、これを世界平和と核兵器全面禁止への第一歩として礼賛し、「部分的核停条約支持」を世界平和運動全体におしつけようとし、わが国の原水禁運動内部でも、一部の人びとは、原水禁運動が「部分核停条約支持」の立場にたつことを要求した。これにたいして、わが党は、(1)部分核停条約は、アメリカ帝国主義の核戦争準備になんら基本的な制限をくわえる力をもたず…合法化された地下核実験をつうじて必要な核兵器の開発計画さえ継続できること、(2)この条約はまた、アメリカ帝国主義がその戦争政策を「平和」の仮面でつつみかくすのに役立つもの…、(3)…アメリカ帝国主義がこの条約にかけたおもなねらいの一つは、社会主義諸国の防衛力強化の手をしばり、とくに中国などソ連以外の社会主義国が核兵器をもつのを妨害して、アメリカ帝国主義の「核独占」の永久化をはかることにあること、(4)結局、部分核停条約は、…ソ連など一部の社会主義国がこれに参加したとしても事態の本質を帰ることはできないこと、(5)原水禁運動がこれを支持することはアメリカ帝国主義の戦争と侵略の政策を人民の目からおおかくす結果になること、(6)「部分核停条約支持」を平和運動、原水爆禁止におしつけ、あるいはそれを統一の前提とすることは、明白な分裂主義路線であることを事実にもとづいて解明した。

(64年10月の)中国核実験とその後の事態は、第一に、「いかなる国の核実験にも反対」「部分核停条約支持」などの主張を原水禁運動におしつけることが、核戦争に反対する人民のたたかいのなかでどんな政治的役割を、浮きぼりにした。それは、アメリカ帝国主義が日本を重要な拠点として中国にたいする核攻撃をたくらんでいるときに、中国が必要な防衛措置をとることに反対し、その放棄を要求するという、道理にも平和の地益にも反する方向に運動をおとしいれることである。もし、原水禁運動が、…これを運動の「基本原則」としていたならば、…核戦争の脅威の根源であるアメリカ帝国主義の核戦争準備、核脅迫政策と対決する立場にたつことはできず、米日反動勢力といっしょになって中国核実験に抗議し、…日本の核武装化を強行しようとするかれらの「中国封じ込め政策」と…たたかえないで、事実上黙認する運動に堕してしまったであろう
 第二に、核兵器全面禁止のための闘争をいまただちに全面的につよめることこそが、核戦争の危険を根本的に確実にとりのぞく道であると同時に、核実験禁止の課題を全面的、終局的に達成するもっとも現実的な道である…。…一貫して核兵器の完全禁止と徹底的廃棄を主張し続けている中国が、防衛上核実験を余儀なくされた事実がはっきりしめしているように、帝国主義者が核兵器をもってその侵略政策をつよめ、とくに一連の社会主義国にたいする核攻撃の準備を強化している状態がつづくかぎり、侵略の対象となっているこれらの社会主義国が防衛のために核開発を余儀なくされた事態を、さけることはできない

前衛 1965.1臨時増刊 pp54-56

参考資料:73年に宮本委員長が記者会見で、中ソの核兵器にたいする新しい党の対応について、次のように述べた(『七十年』より)。

アメリカが最初に核兵器を開発し、その後ソ連が開発した。その途上でソ連が、核兵器の全廃の提案をした時期もあったアメリカは受け入れなかった。
そして、現状のような核競争が続いている。われわれは初期のあいだは、アメリカがその侵略政策のもとで、核兵器を背景に…ソ連、…中国にたいして封じ込め政策をやった。
この段階では、社会主義国の核実験には賛成もしないが、…よぎなくされたもの、防衛的なものという見方をしてきた。これには根拠があった。アメリカは核を背景にして、朝鮮やベトナムで侵略戦争をおこない、実際に核を使うという脅迫をやっていたからだ。
しかし、この数年間重要な変化がおこった。…ソ連と中国自体が互いに対立し合うようになった。…チェコスロバキア侵略という…社会主義国の大義に反した侵略行動がおこっている。このように中ソの国際政治における立場には変化が生じている。
そういう段階で初期のように、中ソの行動がすべて無条件に防衛的なものだとか、よぎなくされたものだとは、簡単にいえなくなってきている。
この十年来、…社会主義国…の核実験にたいしても、とくに賛成という態度はとってこなかった。今日は…すべての核保有国にたいし、核開発競争の悪循環からぬけるべきであると率直に求める。同時に、根本的には核兵器の全面禁止を求める。

『日本共産党お七十年・上』p444

参考資料:84年9月の日ソ両党会談予備会談において、日本側は、核軍拡起動力はアメリカ帝国主義だが、ソ連も核軍拡の一翼を担ってきたと主張した(『七十年』より)。

核軍拡競争の責任問題について、党は、…国連総会による原子兵器廃棄の第1号決議の採択、46年の原子兵器廃棄協定と三カ月以内の廃絶を主張したグロムイコ提案などで、ソ連は核兵器廃絶を優先課題としてかかげたが、…54年9月のヴィシンスキー提案以降、核兵器廃絶を通常兵器削減の後段に引き下げ、とくにブレジネフ時代、「軍事力均衡」論の見地からアメリカの核軍拡に対抗しようとみずからも核軍拡の一翼をになってきた歴史的経過に照らして、アメリカ帝国主義が際限のない軍拡競争の悪循環の起動力だが、ソ連にも責任があるとの見方をしめした
核兵器廃絶の運動の性格については、これをアメリカ帝国主義に反対する運動露位置づけることを主張するソ連側にたいし、党は、核戦争阻止、核兵器廃絶の運動は帝国主義にたいする態度いかんを問わず、もっとも広範な反核の勢力のエネルギーを結集しなければ、その目的を達成しえないと指摘し、帝国主義の存在するもとでも大量殺戮の残虐兵器の全面禁止を主張したレーニンの立場こそ、科学的社会主義の先駆的な模範であるとのべた。

『日本共産党お七十年・下』p206

つづく

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