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日本デザイン学会に参加した私の気づき

はじめに

2024年6月22日(金)〜23日(日)の3日間、福岡で開かれた日本デザイン学会 第71回 春季研究発表大会に、ポスター発表者として参加しました。
このnoteでは、私がデザイン学会に参加し、研究・実践を拝聴して得た気づきについて綴ろうと思います。

◎「環世界」とは何か?

情報デザイン研究部会テーマセッション「デザイン実践者が見ている環世界」

3日間参加してもなお、「環世界」とは結局何だったのか?ぐるぐると考え続けている。

【キーノート講演】
「ちょっとふれるとじわわが犇(ひし)めきあう環世界」

講演を聴き、私たちの生活の周りに点在し、浮遊する「今はまだ知覚・認知できていない、幾つもの事象」は無数にもあるのだと痛感する。

私が普段何気なく営んでいる日常で、”微生物”を意識することはほとんど無い。
しかし、この世に存在している個人ならば誰しも日々を営んでいくのに欠かせない、普遍的なパートナーであることに今更ながら気づかされ、私自身が知覚・認知できていない環世界の狭さを痛感したのだ。

きっと、日々の固定化された思考や慣習によって、いつの間にか”本当に大切なこと”や”身近にある普遍的な価値”を取りこぼしてしまうのだろう。

「生活世界に溢れている脈略のないものごとを、産業で働くデザイナーになっても粒度高く見つめていたい」

そう口では言いながら、まだ私自身が固定化された枠組みの中に囚われているように思えてならない。

だから、私は「環世界」という言葉を簡単に使わないようにしようと思う。
(先生方や実践者の方々が言い表す「環世界」の言葉の重みと、私が口に出す「環世界」とでは、ひとつの都市とスノードームほど規模が違うと感じるからだ…)

私は現在、卒業制作(研究)に取り組んでいて、「畑」をフィールドに「”育てる”を示す活動がどんな価値を生み出そうとしているのか?」という問いを見つめているが、この実践の中での”大事なこと”はきっと今も絶え間なく溢れ続けているだろう。
それを、どう細やかに掬い上げることができるのか?自分の中に認識として落とし込むことができるのか?

全ては自分自身に掛かっている。

家庭での生活も、畑の中で行われている発酵も、学校までの道中も、テレビの中の報道も、
私自身がしっかりしていれば、当事者になり得ることばかりで溢れていることに違いないのだろう。

◎「デザインのアフォーダンス」とは何か?

情報デザイン研究部会テーマセッション
「デザインのアフォーダンスを問い直す」

恥ずかしながらデザイン学会で初めて出会った言葉であり、全く咀嚼しきれていないが、現段階での気づきを記す。

【口頭発表】
「人と環境が交わり変容する可能性としてのアフォーダンス」

発表を聴いた上で、私の中で確実になったのは「環世界」同様、それ自体が流動的な動きの中に存在する”変化し続けていくもの”であるということだ。

”世界を知覚・認知しようとする私自身”も、”それを取り巻く環境”も相互に関わり、交じり合って変容している。
アフォーダンスとは、そんな”私”と”環境”の狭間に揺らぎ、潜んでいるものであろう。

「発酵させていると思ったら、自分自身が発酵していたと気づいた」

キーノート講演での横溝先生のこの言葉が、私の中に深く沈んでいく。
私たちは働きかける”主体”であると同時に、働きかけられる”客体”でもあるという、”当たり前”に今更ながら気づいたのだ。

そして、私たちは環境からの提供(アフォード)を、知覚していないだけで既に無数に触れているように思う。
視覚や手触り、音、味、匂い…
思考するよりも先に全身で感じる「感覚」は、きっと私の中で日々蓄えられているのだろう。

「体は全部知っている」

とは言い得て妙であり、きっと"身体知"なるものと、"心で育むもの"とは並列でもなく、重なって存在するものなのだ。

今はまだ知覚しておらず、見落としている、”私の外にある世界”。
全身を使い、感覚に身を任せ、実践を続けていたのなら…
あるときふいに、自身自身に気づきとして返ってくるのかもしれない。

「デザインのアフォーダンス」とは、そんな知覚への可能性を模索しようと変化を続ける過程なのだろうか。

おわりに

生活世界には、非線的で、脈略のない、あいまいな活動で溢れている。
そんな固定化されていない生活世界に存在する、

”絶えず変化し続ける、終わりのないもの”

に目を向けることは、産業によって分断され、持続可能性が失われた現代に、新しい価値をもたらすことに繋がるのかもしれない。
学会を通してそう捉えたとき、

「つくることによって、問い続ける」

ことが重要なのだ、という気づきを得たことが私の中で大きかった。
発表されている実践者の方々は「つくって終わり」ではなく、つくり続けながらより良くしていくための”問い”を社会に対して行なっている。

デザインの本質ともいえるプロトタイプを繰り返し、「かたちづくる」行為。
須永先生の言葉をお借りするのなら、「やって、みて、わかる」こと。

”絶えず変化し続ける、終わりのないもの” が大事だとは思うけれど、それらをデザインの文脈でどう扱えるのか分からなかった。

しかし、「線を引き、繋げて、組み合わせて、囲む」ような試行錯誤の終わらない「かたちづくる活動」を続けていくことがきっと大事なのだ。

「つくり続ける」とは、「問い続けること」
今はまだ、しくみ化にはほど遠く、社会を変えるほどの力を持っていなくても..

全身で感じる感覚と、考え続ける思考と、変化を恐れない強かさを持ちながら、デザインと向き合っていたい。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました🌱

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