力戦党宣言!

力戦、それは力と力の競い合い。定跡という知っていれば得になる変化を切り捨てた先にあるもの…と言われるが、実際はどうなのだろうか?

定跡通りに指す。この言葉は、しばしば、悪い印象を有する。前例に沿い、新たな発想を思いつかないタイプなのだ、といった風に、である。もしくは、序盤だけに注目した結果、大局を定められないといった意味合いである。特に私は捻くれているので、「君は定跡に明るいね」などと言われると、「ああ、そうか。私は中終盤が下手なのだなぁ」と天橋立に想いを馳せている。

先に私の考えを述べておこう。私は、定跡とは、先人の知識・経験の積み重ねであると考えている。日常でいえば、祖母の鞄。民俗でいえば、地名。法律学でいえば、判例がこれに当たると考えている。これらは、踏襲するか否かに関わらず、充分に尊重及び一考に値する宝物である。ならば、定跡も同様の扱いを受けるべきであるという考えを持っている。

さて、力戦という言葉には、ある種の魔法がかけられている。それを表層まで持ってきた言葉が、「これ一本」である。おそらくこの言葉を使う者は、相当な鍛錬を積み重ねてきたに違いない。これ一本とは、砂上の楼閣を構成する言葉ではなく、寧ろ反対に、荒野に轍を踏み続ける行為に他ならない。悲しいことに、しばしばこれを軽視してしまう。別にこれは将棋だけではない。形無という言葉が蔓延する中、踏み続けられた足跡に目を向けるだけであり、その所以に至ろうとしない。英単語の意味と発音をその英単語ごとに結びつける義務教育の弊害の一部であるとも考えられる。やはり、形のみを模造した刀は、恐ろしいほどに脆いのだ。

少し話が外れてしまうが、そもそも力戦の範囲が曖昧である。少なくとも私は、力戦を定跡の外側と認識しているが、これは正統派居飛車の一変化さえも力戦として認定される恐れがある。しかしながら、私はこれを居飛車の変化であるとし、力戦とは認識しないだろう。やはり、力戦とは山崎先生の将棋や英春流のように、単手数の内に変化する駒組みを指しているように思われる。

力戦の話をする度に、口にする話題がある。昔、正統派の将棋を好む者がいた。彼は定跡に明るく、しばしば私が抱く疑問を解消していた。彼の者と連絡が途絶え、そしてまた知り合った時、彼は力戦党として生まれ変わっていた。彼の将棋は、まさに型を破ったそれであり、その姿に憧れを抱き、私もまた、力戦党となった。私のそれは、確かに形はあった。しかし、中身はなく、結局、上記に気が付いたのは、自分自身が正統派居飛車党になった時であった。

まとめ

将棋は自由だ。それは間違いない。だからこそ、人の将棋に口は出したくない。つまり、これは独り言であると、先に記述しておく。その上で、力戦党になるとしても、段階を踏むことは必要不可欠ではないか、と自分の経験から、何処か考えてしまうこともまた事実である。

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