将棋は祈り〜祈祷力を高める三つの鉄則とたった一つの心得〜

おはようございます。突然ですが、皆さんは将棋で勝つためには何が必要だと考えるのだろうか?精密な序盤、安定した中盤力、圧倒的終盤力、どれも大切であり、的を得ているだろう。将棋は二人零和有限確定完全情報ゲーム、すなわち、何かしらの結論があり、我々は探究者として、日々その結論までに至る荒野を歩き続けている。だが、忘れてはいけない。将棋とは相手がいて成り立つゲームである。勝負の世界、それが将棋のもう一つの側面であり、我々は勝ちを追い求めて、上司の顔色を伺うように、己の世界を対戦相手にぶつけているのである。話を戻そう。将棋で勝つために必要なことは何か、私はその答えを求めて81マスの世界を彷徨い、そして、やっと一つの答えを見つけた。いや、見つけてしまったというのが正しいだろう。その答えは、祈祷力だった。

では祈祷力が何故勝つために必要であると考えたか以下に記載しよう。将棋とは持久走である。序盤のある程度の研究から外れれば、そこには答えのないレースが繰り広げられている。中盤から頭を捻じ切れるほどに使い、終盤には間違うことが許されない恐怖に怯えながら、疲弊した脳で走り切らなければならない。対局中、終局後の対局者を見れば、それは明らかだろう。ここで皆さんに問いたい。限界状態の脳は、果たして結論が出せるほどに演算をすることができるのだろうか。中にはできるという方のいるはずである。しかし、脳を使うということは、見た目以上のエネルギーを使う。その状態で自身が考えたと認知していることは、本当に自分が自己の意思で考えたことなのだろうか?もしかしたら、我々は知らず知らずの内に、盤上の神ともいうべき存在Xが出した答えを選んでいるのではないだろうか?私はこの仮説を検証するために将棋ウォーズという名の深淵に足を運んだ。結論から記そう。勝率は10割であった。普通に勝ってしまった。私が今までやってきた勉強とは一体なんだったのだろうか。失意の荒野を彷徨い、そして気がついてしまったのである。将棋は祈祷力だと。

では祈祷とはなんであろうか?一言で表すならば、それは各人の絶対的存在に対して祈りという名の願望を自身の内面あるいは外部の存在に伝える行為により、具体的あるいは抽象的な結果の発生を促す行為である。ここで問題となるのは、絶対的な存在とは何か、である。言い換えるならば、将棋の神様とはなんであるか?ということになる。一般に将棋の神様とは、盤上の森羅万象を統べる存在である。しかし、これには大きなミスリードが伴っている(?)。前述の通り、将棋は対人戦、すなわち勝負の面が備わっている(?)。ならば、ここでいう将棋の神様とは、相手に負けないこと、すなわち、相手のミスを誘発する存在にすぎないことは自明であろう(?)。ならば、我々がすべきことを一つである。それは、相手のミスを祈ることにほかならないのである(?)。

ここから祈祷力を有意義に使うための3つの鉄則を記す。結論から書くと、①生活リズムを整える②顔色を変えない③相手を威圧する感じのオーラ(?)を出す、この3つである。それぞれ順に説明していこう。①に関しては簡単である。祈るという行為は多大なエネルギーと時間を使う。不規則的な生活では疲れが抜けにくく、エネルギーの確保が難しいということである。ある宗教では、1日に5回も聖地に向かって祈りを捧げるらしい。私はこの話を聞いた時に思った、だからなんだ、と。②については、神の存在を相手のミスを誘発するにすぎないと定義したならば、相手にミスをさせるように振る舞うことも祈祷の一部であると考えられるからである(?)。③については、注意点が一つだけある。それは相手に対する感謝を常に抱くことである。オーラとはすなわち、感謝の代謝である(?)。某狩人×狩人という漫画において、ある会長は感謝の末にその力を身につけた。つまり、そういうことである(?)。

では鉄則を使うための心得とはなんだろうか?その答えは簡単である。それは祈ることである。禅問答のようになってしまうが、我々の(?)相手のミスを誘発するという行為(?)の源は祈りによって発生する(?)。故に祈るという心持ちそのものが心得とされることは自明であろう(?)。

まとめると、祈ること自体が将棋において勝つことであり(?)、勝負としての将棋とは一種の信仰に過ぎない(?)。故に我々はこの脱宗教化が進んだ世界において、祈りという宗教的行為に身を染めなければならないのである(?)。







自分へ、将棋で勝ちたいなら練習してください。

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