『あまちゃん』を批判する。その五。

9月の「あまちゃん」がことごとく駄目だったのは、別に宮藤官九郎を擁護するわけではないが、演出の放棄にその理由があったと思う。とりわけ、トンネルを出たときの橋本愛の顔の反復は醜悪だった。あれは、ドラマが現実(というか世間)に媚びた(つまり、ひれ伏した)瞬間に他ならず、まさに「みなさまのNHK」そのものであったと思う。
9月がああした内容にしかならなかったのは、もちろんNHKとの話し合いによるものだろうし、インタビューなどによると宮藤は「だれかが死ぬ」展開も可能性としてはあった、との証言をのこしているのだが、まあ、そうはいかなかったのは「みなさまのNHK」だからしょうがないのだろうけど、逡巡の果てに出来上がった脚本に対する批評的視座が、演出からはほとんど感じられない。独創だったはずの宮藤の世界観を、ものすごく陳腐なものに叩き落としたのが9月の「あまちゃん」であって、しかし、そのことに対する視聴者の不満がほとんど表面化していないのが不思議でしょうがない。
もし、ほんとうに9月の「あまちゃん」にだれも不満を感じていないのだとすれば、やはり「クドカンはホンだけ書いてりゃいいんだよ」的な偏見が主流ということなのだろうし、ドラマに演出なんて求めてないということなのかなと思う。
「あまちゃん」は「作品」になる可能性があった。が、演出がそれを放棄した。これがわたしなりの結論である。
優れた脚本は演出を刺激する(事実、8月までは演出的な冒険が持続していた)。
が、さまざまな事情で「そのようにしか」書くことのできなかった脚本を前にしたとき、脚本家の意を汲むのも演出家の仕事なのではないか。というか、そういうときこそ、演出が踏ん張らなきゃ駄目なんじゃないか。
その仕事を最後の最後で放棄したからこそ、「あまちゃん」は「作品」にならず、結局のところ「慰みもの」へと堕したのだと思う。
紅白に演出を求めるのも無粋かもしれないが、紅白における「あまちゃん」(あれを、もし、ほんとうに「あまちゃん」と呼びたいのだとすれば)は、演出なき「まつり」(ネットで言うところの)ーーすなわち「慰みもの」に他ならなかった。
残酷だな、と思う。

2014.1.17

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?