『あまちゃん』を批判する。その四。

「あまちゃん」は、能で言うところの、序、破、急の三部構成で展開している。序は、6月まで。破は、8月まで。
序は、地方人による地方蔑視を、悪意ではなくスポンティニアスな「くすぶり」の発露として、実はそれらが大きな意味での郷愁の裏返しであることを、テレビドラマにだけ許されたサンプリング手法によって、あからさまにした。厚木という「郊外」生まれの小泉今日子を中核に置いた作劇は、その意味できわめて批評的であった。地方にも都会にも加担しない平明な視点があった。そしてそれは、大人計画を出自とする宮藤官九郎の、演劇人としてのアウトサイドからのまなざしでもあった。
宮藤官九郎は、破において大胆な勝負に出る。今度は、演劇人としてではなく、唯一無二の作家として、鳥瞰的な視座から、世界を描き始めた。そこは東京であって東京ではない。上野であって上野ではない。強いて表現するならば、そこは「ゾーン」である。貨幣のやりとりをすることなく鮨食い放題のその「ゾーン」はけれども天国ではない。因果をめぐる宇宙であり、生と死がすれ違う次元。霊が縦横無尽に駆け回る、怪奇と幻想のファンタジーを、虚構と虚構の合わせ鏡とも言うべき「芸能界」を舞台に繰り広げた。これは快挙と呼んでいい。
ところが、急における宮藤官九郎は、もはや悪しきプロに徹しているかに思える。ここにあるのは、311以後強固になった「同調圧力」である。被災者の気持ちは被災者にしかわからないという正論=常識が思考停止を招き、あらゆる想像力に鍵をかけてしまった。地震、津波という呪いによって、もはやフィクションは瀕死である。はたして、「あまちゃん」という稀有な作品を救出する魔法は、この世にあるのか否か。これは由々しき事態である。

2013.9.25

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