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マスクの取り扱い。ホン・サンス『小説家の映画』

シネフィルから出発したホン・サンスだが、現在の彼の作品を、もしエリック・ロメールを引き合いに出して語るとすれば、それはとんだお門違いだし、この映画作家はもはや、ロベール・ブレッソンからも、ジャン=リュック・ゴダールからも遠く離れて、たった一人の映画道を歩んでいる。孤高という形容すらそぐわないほど、ホン・サンスの轍は独自性に貫かれている。

「オー!スジョン」「次の朝は他人」そして「それから」までは、モノクロームで撮ることになにがしかの賭けがあった。しかし「草の葉」以降は黒白(こくびゃく)映画を乱発し、カラー作品を凌駕しつつある。というか、自身のキャリアにおけるモノクロの特権性を剥奪する試みにも思える。なにしろカラーで撮影し、それを白黒に変換し、画質もあえて低下させているというから、これは色彩を剥奪された元カラー映画であり、一種の残骸。アレンジされたカラー作品とも言えるし、あるいはそのどちらでもない可能性も匂わせる。どうでもいい、という身の呈し方。

カラーだった「あなたの顔の前で」も、ノイジーでローファイな作品だった。近年のホン・サンスは自ら撮影を手がけ、音楽までも手中におさめている。全権を集中させ、意図的な劣化を施す彼が、次なる時代に突入したと考え得るのが「小説家の映画」である。

ピカソに「青の時代」や「薔薇の時代」があるように、ホン・サンスにも幾つかの時代がある。沈黙することなく、以前よりむしろハイペースになっているこの作家は、「キム・ミニの時代」を通過して、いよいよ「左手の時代」に突入したのかもしれない。

数値化された構造主義に、夢や日記を埋め込みながら進化してきたホン・サンスは、どんなに散文的に見えても、実は「楷書」の作家だった。ところが、構造主義を極めた「それから」の次の作品「草の葉」では題名通りに「草書」へと筆致を崩した。それは一時的な気まぐれではなかった。「逃げた女」「イントロダクション」はいずれも優れた作品だが、従来にはなかった淡さが醸し出されており、「草書」的ななめらかさに満ちていた。

キム・ミニがプロダクションデザイナーに回り、画面に姿を現さない「あなたの顔の前に」は、ことによるとリセットなのかもしれない。

モノクロームの「小説家の映画」にキム・ミニは出演している。眩しいほどに可愛いショットもある。だが、だからこそ思うのだ。これは、書家が筆を左手に持ち替えた最初の一作なのではないかと。

「あなたの顔の前で」のイ・ヘヨンが続投し、小説家を演じる。タイトル通り、これはイ・ヘヨンがキム・ミニを撮るまでの物語だ。

小説家も女優も現在休業中。再開を望まれることの苦痛において共通点のあるふたりの女性は、出逢ったその日に交流し、小説家はひらめき、女優はアイデアを受け入れる。その本筋の周囲を、いつものように迂回性たっぷりの対話や飲み会が彩る。

これまで通りに見えて、これまでのような陰影が薄い。小説家は毒も吐くが、辛辣ではなくまろやかで、女優にとっての軋轢も秘められたまま、フェイドアウトする。この薄さが、書家ホン・サンス最新の筆致だ。

小説家にとってそれは初めての映画。

ホン・サンスが初めての映画を撮ることは難しい。だから、イ・ヘヨンが撮るという形式を選んだ。そして、このひらめきを決して深めることなく、淡いまま浅いままで画面に定着させることにした。

筆圧のなさは、老いではない。「左手」で書いているからだ。

「イントロダクション」は青々とした映画だったが、「小説家の映画」は初々しい。

そして、この初々しさが、際立つのが、マスクの取り扱い。

劇中の人物は、マスクをしたり、しなかったりしている。

つまり、映像世界からマスクを排除するわけでも、マスクを印象づけて何事かをメッセージするわけでもない。どっちでもいいし、どうでもいいのだ。

かつてのホン・サンスなら、もっと荒々しく、強烈に、マスクをめぐるリテラシーを無視していただろう。撮るにせよ、撮らないにせよ。

世界には、マスクを撮る監督と、マスクを撮らない監督がいる。

だが、こんなふうに、淡く浅くマスクを扱った作家は、ホン・サンスが最初で最後だろう。

ロメールなら?
ブレッソンなら?
ゴダールなら?

マスクをどう撮っただろう(あるいは、撮らなかっただろう)。

妄想すると、ホン・サンスこそが、歴史上最良の選択をしているようにも思える。


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