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文字がめくれあがっていく

限りなく透明に近いブルー

 電子書籍化された村上龍の『限りなく透明に近いブルー』をiPadで読んでいる。読んでいるというより眺めているといったほうが正しいかもしれない。より正確に表現するなら「めくる」快感がここにはある。

 「めくる」快感はタッチパネルで閲覧することが可能な電子書籍すべてに当てはまることではあるがテキスト表示であるかぎりそれは活字本のまがいものでしかなく「見立てる」というやや倒錯的な脳内作業を伴っていた。ここに収められている手書き原稿を「めくる」快感は個人的には生まれて初めて体験するきわめてダイレクトな感覚である。

 三十五年前の手書き原稿が全編収録されているから価値があるのではない。そうした文学資料館的な価値など読書には本来不要なものでしかない。手書き原稿のまま読み進めるにあたってiPadが最適であるということに価値があるのだ。

 たとえばこれが紙媒体として出版された様子を想像してみる。出版社が考えることはおそらく次のふたつであろう。手書き原稿を読みやすくするため20×20のコクヨ原稿用紙に書かれたそれを一枚ずつ見開き完結にする。右ページに10行。左ベージに10行。つまり原稿用紙を「裁断」する。あるいは実物大にこだわる。マニア用と割り切って横長の絵本のような限定本にする。しかし端的に言ってそれはコレクターズアイテムでしかなく読むためのものではない。やはり文学資料館的な自閉しか生まない。

 iPadは実際の原稿用紙より一回り小さいが原稿用紙を一枚ずつ読むにはぴったりのサイズだ。レポート用紙を一枚ずつ破り捨てていくような感覚があってそれが村上龍が積み重ねていく言葉の感触にぴたりと一致する。iPadならではの厚みと重さ(私が使用しているのは「2」ではない)が原稿用紙の物質感に通じていることも見逃せない。紙媒体で原稿用紙をトレースしたらきっとそれぞれが紙であるからこそ違和感が増幅されるはずだ。それこそ「見立てる」ことにしかならない。しかし電子書籍化においては迂回がむしろ原稿用紙で読むことの「重量」を最前線で体感することを可能にしている。

 ブルーの万年筆で綴られた村上龍の文字はまるっこく幼くてそれゆえに読みやすい。誤字の修正や数行の削除に最低限の赤入れだけがなされた所謂「清書」ではあると思うが書き手の躍動や脈動や情動は活字とは較べものにならないほど生(き)のままでそこにある。何よりも文字が書かれながら「めくれあがっていく」臨場がたまらない高揚を呼ぶ。読点は少なく句点は英字のピリオドと化している箇所が多く読点と区別がつかないことがすべてが連なり束となって放流されていく村上龍独自の速度とリズムを体現している。テキスト版では句点が句点として読点が読点として整理され組織されているため「近くにいる」感覚は皆無である。

 『新潮』5月号に谷崎潤一郎が自ら主演してラジオドラマ化した『瘋癲老人日記』(一九六二年収録)の音源CDが付録についていた。谷崎の肉声は朗読や素人芝居の域からはるかに遠ざかり名人と呼ばれる噺家のような優雅さで文学を文学から解放している。彼の卓越した息つぎからもたらされるものは作者の肉声もまたひとつの解釈にすぎないとする次元であり「こうでなければならぬ」といった決めつけに真っ向から歯向かうものであった。谷崎の肉声同様に村上の肉筆もまた文学に「あるべき場所」などないことを示している。

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