『あまちゃん』を批判する。その六。

先日、立教大学新座キャンパスで、黒沢清監督と篠崎誠監督と共に登壇させていただいた際、篠崎監督から質問があり、『あまちゃん』の問題点について少し述べたのだが、あらためてこのドラマについて考えている。
『あまちゃん』は時制で言えば、震災直後から急速に失速した。それまでキープしていた批評的視座をいとも簡単に放棄し、古色蒼然とした、かつていくらでも存在した共同体のドラマへと回帰した。
「だれも死なない地震」を描いたことが問題なのではない。「だれも死なない地震」を描くことと、「だれかが死ぬ地震」を描くことに、さほどの違いはない。『あまちゃん』であれば、「地震は起こらなかった」可能性としてのフィクションを追求することができたのに、それをしなかったことが問題なのだ。
だれもが、そのとき、地震は起きる、そう思いながら、毎朝、あのドラマを見つめていた。であれば、その地震が起きないというパラレルな世界を描写することによって、わたしたちは、より深く3.11について考える契機を与えられたかもしれないのだ。
地震をめぐる予定調和な演出は、追認しかもたらさない。あらかじめわかっていたことの、再確認にしかならない。その程度の作品は他にいくらでもある。
そうではない。不在の地震を見つめることで、わたしたちの世界になにが起こったのかを熟考できたのだ。
地震が起きなかった世界。それは逃避ではない。批評だ。『あまちゃん』なら、それができた。
なぜなら、これは小泉今日子が、アイドルになれなかった女性を体現するという、脱構築としてのメタフィクションだったのだから。
あの大きなフィールドで、あれだけの視聴者の注視の下に、それがおこなわれていれば……
フィクションは、新たなる地平を獲得できていた。
だが、おそらく、それは許されなかった。
わたしたちが、それを、許さなかったのだ。
いま、あらゆる意味で、フィクションが、現実=観客の奴隷と化している。わたしは、SMAPをめぐる騒動にもそれを感じる。
SNS以後の「民意」が、フィクションの前進を阻んでいるように思えてならない。
たしかにフィクションは、現実とリンクする。
だが、フィクションは、現実の追認ではないのだ。
巨大な「民意」との辻褄合わせばかりを繰り返していては、やがてフィクションそのものが圧死することになるだろう。
もう一度言う。
フィクションは、わたしたち=観客の奴隷ではない。

2016.3.21

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