自分を翻訳しない。前田敦子の意思について考える。

意思的であること。前田敦子の魅力はそこにあると思う。いまさらですが。ポジティブシンキングとか負けず嫌いとかそういうことじゃない。自分は自分という開き直りでもない。自分というものをわかりやすく翻訳しないという意思。既存のキャラに自分を当てはめてスライドさせて、それを巧妙に演じることが空気を読むということだと思うけど、それをもっとも求められる芸能界という職場でそれをしないという意思。もはや天然という領域ではない。無意識で乗り越えられる限界を、彼女は随分前に突破している。
以前、演技者としての彼女について、天才でもなければ秀才でもない、と書いたことがある。天才はときとして、やりすぎてしまうことがある。そして、やってはいけないことまでやってしまう。どんな監督もそれを制御することはできない。秀才は努力型である。努力を追求するものは、どこかで努力が実ることを願っている。結果、ほめられることを求める、物欲しげな芝居に陥ることにもなる。
前田敦子の演技の素晴らしさは、やって はいけないことをけっしてやらないことにあり、観る側に対して、こう見てほしいという目配せがいっさいないことにある。彼女は天才の限界と秀才の限界を、いつの間にか突破しているのである。

2012.6.25

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