ビートたけし『アナログ』を書評する。

 ほんとうにボケているのか。ボケたふりをしているのか。つまり、本格的に老いたからこそのズレなのか。それとも、あくまでも笑いの延長線上にある確信犯的なズレなのか。おそらく本人もわからないまま、その二択は混濁しているのではないか。「狙い」の意識はあるのだろうが、そのすぐ隣に無意識という「悪魔」がにやにや顔で心霊写真のように写っている。
 序盤には次のような記述がある。 
<笑いは悪魔だ。どんなに緊張した場面にも登場のチャンスを狙って見逃さない。>
 ボケにしろ、ズレにしろ、いくら狙っているつもりでも、常に別な角度から狙われている。すなわち、狙い=狙われ、という複合的な構図。この肌合いを受容できるかどうかが、読者にとっての分かれ目となる。
 インテリアデザイナーが、自身がデザインに参画した喫茶店(カフェではない)でひとりの女性と出逢う。毎週木曜にはそこを訪れるという彼女と、あえて連絡先を教え合うことはせず、逢えるときにここで逢う。行き当たりばったりだったはずの約束から恋が始まり、やがてそれが永遠の誓い(らしきもの)へと結実することになる。
 物語のアウトラインだけを追いかければ、男にとって都合のいいおとぎ話にも映る。だが、主人公の恋路を応援する悪友ふたりの存在が落語めいた語り口を醸成する。落語は、語られている時空のリアルな現在性を抹消し、いつでもない虚構の「いま」を召喚する。これは意識的な狙いとしてのボケであり、ズレだ。
 コンピュータに対して懐疑的な主人公は同業者に揶揄されながらも手作業にこだわる。かろうじてケータイは持っているがメールもネットも使わない(使えない)。小説はドラスティックやプライオリティーやコンセンサスやイシューなどビジネス系カタカナ言葉の否定からまず入るが、そうしたキャラクターの設定自体が、もはやいつの時代に書かれたフィクションなのかを不明のものとする。主人公は30代。だが、それは本当か。飲み歩く3人の男たちの姿は作者がそうであるように70代の振る舞いにも思える。こうした頓珍漢な描写は、もはや無意識に「狙われた」結果なのではないか。
 ビートたけしは自身がマザコンであることを隠そうともしない。主人公が母を喪ったあと、運命のひとの胸で泣き、彼女を<母であり菩薩であり天使だった>と形容するのは、どう転んでも陳腐だ。
 だが、頓珍漢さも陳腐さも、無防備な筆致だからこそ生まれていることに気づいたとき、この小説の複合的な情緒は初めて理解できるだろう。
 タイトルに反して、著者は理数系であり、デジタルな人間である。インタビューではどのような質問を投げかけても瞬時に反射的に返す。その正確さ、迅速さは、直感という領域を超えて、もはやブレることのないマシーンを思わせる。
 北野武としての最新作『アウトレイジ 最終章』は、笑いにも悲哀にも背を向けた、ただひたすらに澄み切った映画だった。そこには、かつての自分に戻ることも、またかつての自分を否定することもない、透明な進化だけがあった。
 小説『アナログ』を読んでいると、裸の王様は自分が裸であることを知った上で、ボケたりズレたりしているうちに、意識と無意識の境目がわからなくなり、その上で悠々と新しい道を歩んでいるように感じられる。こんな老人になら、なってみたい。

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