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オッドタクシーは世界を冷笑しない。世界とbuddyになろうとしている。

オッドタクシーのキャラクターたちが希求している関係性はbuddyもしくはpartnerである。小戸川を中心に、ドブ、剛力、柿花、山本、そして白川。ヤノは関口、ドブ、二階堂にとっての山本、馬場。柴垣をめぐる馬場、長嶋。
黒田、タエ子、今井、樺沢、呑楽は不特定多数のセカイと相棒になろうとしてる。

わたしたちがこの素晴らしきアニメーションに親近感をおぼえるのは、動物キャラによるものではなく、単一の関係性を、卓越した話芸で「語り下ろしている」からであり、これは21世紀ならではの「複合的な落語」と呼ぶべき、フレンドリーに核心だけをつきまくる「文化」。
すさまじい大衆性!優勝‼︎

にんげんの承認欲求を、ここまで的確に、否定せず、ぬくもりをたたえたまま、美化におちいることなく、こき下ろさないジョークをたずさえながら、当たり前に、フラットに、ファニーに、ちゃんと認めてる作品が、世界中に何本あるというのだ?
しかもSNSもYouTubeもゲームもワイドショーも肯定してる。

つまり、オッドタクシーは、まったくもって意識高い系ではないし、ある種の映画(村の住人)がそうであるように、冷笑的ではない。そこがいい。すごくいい。
ポン・ジュノ『パラサイト』は無茶苦茶面白かったけど、やはり意識高いし、冷笑的だった。そこが、質の高い映画たちの限界でもある気がする。

オッドタクシーの小戸川は基本的に無欲。だから剛力、柿花、ドブ、白川、そして大門弟や山本にも求められるし、必要とされる。
そのスモールサイズが馬場で、馬場も無欲。相方・柴垣、アイドル・二階堂双方から求愛される。
ここが重要。
ドブが樺沢を批評するのは、ドブにも自己承認欲求があるから。

だれかや、作品、世界を批評するヤツって結局、自己承認欲求が強いんだと思う。
わたしも、まさに。
そういうことに気づかせる、リトマス試験紙みたいなところもある。

ドブの樺沢に対する的確な批評は、それを物語る。ドブもまた、自己愛が強いタイプ。もちろんヤノも。だからドブに近親憎悪を抱く。

剛力が「医師としてではない。友だちだからだ!」と宣言するシーンは、たしかに感動的なのだが、同時に、大らかでフラットに映る剛力にも自己承認欲求が渦巻いていて、それがついに屹立したという、別なエモーションが生まれる。
そもそもあの調査は剛力の小戸川への執着。
いやあ、ほんとうに面白い。

だから田中の回は、かなり重要。
樺沢よりはるかに深刻に描かれる「その人だけのこだわり」(すべてのキャラクター描写が実はそうなっている)が、本作の核心かもしれない。
呑楽消しゴムは「その人だけの価値」の象徴であり、価値とはどこまでいっても孤独なものなのだ、という真理の体現でもある。

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