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終わらない日常を、たったひとりの愉悦に変えるための『花のズボラ飯』。

大きな賛否を呼んでいる話題の一作。構成は単純。夫は地方に単身赴任中。東京で一人暮らしをしている「主婦」の手抜き料理が一話完結で語られていく。

 いわゆるグルメ漫画を期待すると思いきり裏切られる。たとえばお手軽レシピを参考にしたいなどという文字通り「ズボラ」な読者は情報性の明らかな不在ぶりに失望するだろう。あえてメニューは書き出さないがここで「紹介」されているものは料理本などで綴られる料理とジャンクフードのはざまにあるものがほとんどで言ってみればその双方に属さない「境界線上のアリア」が奏でられるのだ。過程(なぜそれを作ることになったのか)も描かれるし結果(あー美味しかったという)も提示されるが起承転結に重きを置いているわけでもない。物語的カタルシスをお求めの向きにも「読み切り」ならではの満足感が得られることはたぶんないはずだ。

 彼女は最寄り駅から三駅離れた書店でアルバイトをしている。おしゃべりな店主も嫌な客も隣人のカップルも大学時代からの親友も行きつけの店もすれ違う母娘も出てくる。完全に主人公「ひとり」が追いかけられるわけではない。しかし彼女以外の人物はすべて彼女にとって「風景」であり「心象」である。

 子供もいない彼女がなぜ夫について行かなかったのか。その理由は説明されない。いわゆるキャリア志向ではないし格別書店バイトの内実に依存しているわけでもないし東京で果たすべき目標があるようにも映らない。けれども彼女は「ここ」にいるのである。二階建ての家で「たったひとり」で暮らしている。

 夫は姿を見せない。冒頭彼女が電話で話している相手は夫であると思われるし夫からの携帯電話も鳴るし帰京した夫との外食も回想されるし夫の残り香を毛布に嗅ぐ逸話もある。だが夫の像が画として描かれることはない。そう。スヌーピーやチャーリー・ブラウンでおなじみの『ピーナッツ』で大人の声はしてもその姿は一切ビジュアルで示されないように。

 ことによると夫がいるというのは妄想なのではないか。あくまでも仮定だが三十歳独身女性の「脳内コスプレ」だと捉えると空腹から料理にいたる経緯や調理最中の「ひとりツッコミ」のいささかハイなテンションも「作風」(そこに嫌悪感を示す読み手も多いようだ)の一環ではなくしかるべき必然性として立ち上がってくる。

 彼女は「たったひとり」の「終わらない日常」を活性化するために束の間の没頭しか許されない(手の込んだ料理ではなく)手抜き料理をあえて「選択」しているのかもしれない。そして夫の「存在」(=「不在」)が彼女に「後ろめたさ」というスリリングな薬味を与える。

 そう考えると彼女が駅から二十分かけて帰宅するという「設定」にも精神的なリアリズムが生まれてくる。「ひとり」で職場に通い「ひとり」で家に帰り「ひとり」でごはんを作り「ひとり」で食べるという「日常」をいかにして肯定するべきか。その試論としての「ズボラ飯」なのだ。

 批判の大きな要素として食べているときの彼女の顔が「官能的すぎること」が挙げられているが個人的にはこの描写は「食=性」という通念を体現しているわけではないと考えている。そうではなく「終わらない日常」を活性化させたことによってもたらされる「たったひとりの愉悦」がそこには刻印されているのだ。たとえばある料理が完成する瞬間にその料理の側から彼女を見上げた画が小さなコマで示される。それは小さいけれども決定的な「祝福」に他ならなかった。

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