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映画『イノセント15』の凍てついたあたたかさについて。

 凍てつくようなあたたかさ。

 雪が突き刺さるように降りしきる中、なにかに追われるように走る少年の顔に寄り添うカメラが、この映画にしかない体温を運び込む。
 告白する少女の顔を見つめるカメラもまた、非情な観察ではなく、決して目をそらさない視線の情動を感じさせる。やがて、わたしたちは気づくだろう。彼女の耳が寒さで赤くなっていたことを。「そうだよ。告白した」と、自身の行為を潔く認める少女の声が、皮膚に灯った赤を忘れられないものにする。
 そして、少年の父親と、彼を愛する同級生との会話ーー「寒いぞ」「寒いほうが綺麗だろ」。

 そう、寒いからこそ享受できるぬくもりが、この世界にはある。凍てついているからこそ、うけとれるあたたかさが、生きていればきっとある。

 凍てつく季節とは冬ばかりではない。15歳の少年少女が暮らす時間もまた凍てついている。それは彼や彼女らの年代特有のものではない。彼の、彼女の、固有のものだ。少年は少年だけの、少女は少女だけの凍てついた季節をすごしている。だからこそ、ふたりは、少年の誕生日を記念するように、この季節から駆け落ちするのだ。

 この映画は、少女のいくつもの決定的な表情をとらえている。
 たとえば、電車に揺られながら眠りこけ肩にもたれた少年の様子を、膝にお弁当を載せたまま眺めている少女の顔。彼女の人生にもう二度と訪れないのではないかと思われるほどの、おだやかでたおやかな平安と歓びがまじりあった表情。
 あるいは、キャッチャーマスク姿で金属バット片手に救出にやってきた少年をいさめる少女の顔。彼女はいま人生でいちばん美しく輝いているのではないかと思われるほどの、なんびとにも穢されることのない澄みきった透明な表情。
 そして、少年が運転するスクーターの後ろに座っているときの少女の表情。かつて、少女が運転する自転車の荷台に少年が座っていたことを思い返すなら、ついにその立場が逆転したいま、彼女の顔はときめきと幸福につつまれていてもよいはずなのだが、ここで少女は「ゼロ」と呼んでいいほどフラットでニュートラルな面持ちのまま、スクーターの振動に揺られている。わたしたちはそのとき知る。人生のピークを迎えたとき、実はひとは無表情になるのではないかと。この、すべての「はじまり」でもあり、すべての「おわり」でもあるかのような彼女の「ゼロ」の顔は、あらゆる言葉を奪い去る。わたしたちの茫然自失に、少女固有の茫然自失が降り立ったとき、凍てつくようなあたたかさが生まれる。

 痛みを感じないように生きてきた少女が痛みを知るとき、凍てつくようなあたたかさが彼女を見守る。
  少年が「俺、お前のこと好きになりたい。俺、自分のこと好きじゃないけどさ、お前のこと好きになりたい」と声をふりしぼるとき、凍てつくようなあたたかさが彼を見届ける。


 エンジンは濡れている。ふたりのこころのエンジンはもう濡れている。

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