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わたしたちは「無用の用」で出来ている。『まなみ100%』が教えてくれること。

 無用の用。
 体操部顧問教師の一言がじわじわと波及し、地を固め、やがて青春の走馬灯へとたどり着く。打ち上げ花火の枝垂れ柳、その先端の儚さがこの映画にはあって、それが朽ちることのない余韻となる。
 とはいえ、教条主義的な作品ではない。言葉が象徴するものはあるが、描写が言葉に支配されていない。それは、主人公の造形に練り込まれた、自由と節度の仲良し具合によるものだろう。
 男の子と五人の女の子たち。そんなふうに語れるかもしれない構造はけれども、いわゆる女性遍歴を綴るわけではない。現在同棲中の彼女。まなみちゃん。憧れの先輩。女優志望の彼女。彼が、それぞれの女の子にどんなふうに対処しているかを振り返れば、自由と節度が織りなす本作のオリジナリティが浮かび上がる。
 まなみちゃんに逢うたびに求婚する主人公は、その都度「だって本気じゃないでしょ?」と断られ、「君はバカだなぁ」と総括される。
 他にも好きなひとがたくさんいる。そのことを指摘され、否定もできない彼は、まなみちゃんに何か言われた時、一瞬、神妙な顔をする。人生の深淵をふと覗く。その戸惑いが、軽いようでいて、決して軽くはない主人公の本質を明るみにする。彼は、自分がどうしたらいいか、自分がどうしたいのか、わからないのだ。未来も欲望も、聡明で超然としたまなみちゃんの前で、うなだれる。この味わいは、遂にホテルでベッドインした時に、ピークを迎えることになる。
 このベースがあるから、幾つかの要素の反復がとびきり素敵な記憶となる。この映画は、記憶が記憶となる秘密を、ひっそり解き明かしているとも言えそうだ。
 ふと再会した先輩と、ひととき夜を過ごし、「キスしません?」と誘うが、軽くいなされる。しかし、それから数年後、難病に冒された先輩は病床から「キス……する?」と、語りかけるのだ。しかも、おずおずと。
 その、おずおずに呼応するかのように、彼はおずおずと近寄り、先輩の頬にそっとキスをする。ここまで美しいキスシーンを見たのは、ほんとうに久しぶりだ。
 ここに、彼の素顔がある。そして、これこそが無用の用である。
 すべては偶然で、すべては必然なのだ。なんの気なしに口にした一言が、知らぬあいだに熟成されている。
 ひとは、自分の人生の成り行きには関与できないのだという、圧倒的に当たり前の真実。
 高校生の時は衝動的だったかもしれぬ髪を切るという行為が、映画のラスト、自らの意思で行われる時、わたしたちはその真実を目撃することになる。
 前髪を切る同棲相手。別れを切り出し去っていく彼女。ノートパソコンとスマホを叩き壊す彼女。「ありがと」と微笑む先輩。結婚式直前、主人公を抱擁するまなみちゃん。すべて、愛おしいほどの女性上位の肯定。
 彼女たちこそが、彼の人生を司っている。
 いい加減で自分勝手にしか見えない主人公そのものと言っていい『まなみ100%』というタイトルは、だからこそ沁みる。100%とは到底言い切れない軽薄さを抱える彼は、実は女性という存在に100%決定づけられているのだ。つまり、まなみとは、固有名詞ではなく、不特定多数の女性たちの象徴である。
 手をつなごうとしても、10秒以上そうすることのできない相手。いつも謎めいた表情を浮かべているまなみちゃんは、いつも透徹したまなざしを彼方に向けていた。
 それでも。いや、だからこそ。
 人生には、無駄がない。すべての出来事は、等価。その価値は、自分でははかれない。自由にも節度にも、意味がある。
 異性に負けたことがあるひとなら、みんな知っている。
 わたしたちは、無用の用で出来ている。
 

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