洗礼。

洗礼は、洗練されていてはいけない。
洗礼は、鈍い痛みをともなっていなければいけない。
洗礼は、初体験でなければいけない。
洗礼は、鮮やかであってはいけない。

やってるよ。
店の入口にかかげられている、その文字を目の当たりにしたときから、わたしたちはある予感をキャッチするだろう。
扉のあまりの小ささに戸惑いながら、わたしたちは予感が確信に変わっていく推移を生きることになる。
なかに入り、牛肉飯を注文し、店内に転がっているタツノオトシゴのようなものが乾燥している様を眺めながら、わたしたちは待つ。

洗礼は、あっけなく訪れる。
洗礼は、はじまったら終わるまで止まらない。
洗礼は、留まらない。
洗礼は、休む暇を与えない。
洗礼は、わたしたちを試す。

想像以上の辛さである。
重量級の辛さ。それでいて、まったく暴力的ではない。爽やかですらある、ヘヴィな辛さ。
牛肉にそなわっているそもそもの甘さにぶらさがるようにして、わたしたちはその辛さに食らいついていく。いや、振り落とされないようにするのが精一杯。ごはんのことも、もやしのことも、もはやよくわからない。スープをすすれば辛さはさらに倍増する。
そこからはもう夢中だ。くちびるのふちがひりひりする。耳にまで到達するなにか。頭皮だって当たり前のように熱くなっている。

洗礼とは、そのひとを決定的に変えてしまうなにかでなければならない。

すべてが終わってみないと、わからないことがある。
わたしたちは、やがて、あの漬物が、なぜあのような味だったかについて、きづくことになる。

洗礼とは、発見である。

そして、わたしたちは、それが恋しくなっている。

(2013.4執筆)

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