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『渇き。』の小松菜奈について

『渇き。』の小松菜奈について。

決定的な存在を演じるとき、多くの演じ手は、自身の役を「人間にする」ため、余計なことをしてしまう。
たとえば、かなしさやむなしさ、あるいはうつろいといった「弱さ」を薬味のように加えることで、「強さ」を浮き彫りにする。しかし、こうしたわかりやすいものは結局のところ、不純物にしかならない。決定的な存在だったはずなのに、紛い物へと堕してしまう。
『渇き。』の小松菜奈は、哀感や虚無はもちろん、感情のグラデーションを一切見せない。それは中島哲也監督が「やらせていない」からではあるが、小松菜奈が「やらない」資質の持ち主であることは、昨年ひっそりと公開された佳品『ただいま。』(島田大介監督。宇野祥平共演)での彼女のたたずまいを見ればよくわかる。
小松菜奈は虚飾を拝して、本質的なものだけを映し出す。本質があればいい、ということをほとんど細胞のレベルで理解しているから、「人間になる」という説明から一切自由でいられる。
自由という力。
本質だけを指先でつかまえる「自由力」が、観るもののイマジネーションを大空に羽ばたかせる。
そして、彼女は微細な魅惑をわざわざ金粉のように振りかけなくても、生まれながらの憂いを有している。生まれながらの憂いには説明がいらない。あるものはある。ただそれだけのことだ。
宮沢りえ、吉川ひなの、そして水原希子。彼女たちは真に決定的な存在ではあるが、彼女たちにはなかった「なにか」が小松菜奈にはある。そして「それ」は間違いなく、これからの日本映画を変えていくだろう。
いま、ようやく二十一世紀がはじまろうとしている。

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