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1994年の孤独は、2023年の今も立ち止まったまま。『エドワード・ヤンの恋愛時代』

長編は7本。寡作の印象がないのは、1本1本のクオリティが高く、そのいずれもが質量を伴っているからだろう。エドワード・ヤンに低迷期はなかった。「ヤンヤン 夏の想い出」の後7年は映画を完成させることができないままこの世を去ったが、どんな監督にもある駄作(たとえばピントのズレた野心作、あるいは空虚な大作など)を遂に撮ることはなかった。稀有な満足感の提供。シャープな映画作家は、自身のキャリアにも不幸を漂わせない。その意味でも完璧だった。

もし、彼の監督人生に綻びを見出すとしたら「エドワード・ヤンの恋愛時代」が他の作品ほど評価されなかった事実であろう。断言するが、この長編第5作こそが最高傑作。4K版の公開は、これまでの定説を覆す絶好の機会となる。いまこそ、遭遇しなければいけない。

29年前に完成した本作と再会して痛感するのは、エドワード・ヤンは未来の映画を撮っていたという真実だ。もうすぐ21世紀も四分の一が終わるが、「恋愛時代」は全く古びていないどころか、私たちが生きるこの現代と正確に一致する。当時、ヤンは【台北の現在】を描いた。【現在の台北】ではない。【台北の現在】を描いたのだ。最新の風俗と戯れるのではなく、都市が辿り着く次元を見つめた。あれから世界は激変し、台湾も日本も20世紀末とはまるで違う様相を呈しているが、この映画が指し示す地点は、驚くほど何も変わっていない。

これはエドワード・ヤンが人間の普遍を凝視していた、という話ではない。また予見性云々でもない。

私たちは、もう進化しない。私たちの孤独は、これ以上、進化することはない。「恋愛時代」はそう告げている。孤独は、行き止まったまま。この諦念。逆に言えば、これ以上、深刻化することもない。1994年の孤独は、2023年の今も立ち止まったままなのである。

明日があるさ、と根拠のない希望を説く映画は多い。それらはルーティンであり、フォーマットでもある。そして、未来への不安を口にする表現者も、やはり多い。シリアスな等身大を演じるには、打ってつけのテーゼだからだ。

だが、これから先も何も変わらないよ、とネガティヴにもポジティヴにも属さないスーパーフラットなポジションから、進化しない孤独を提示したクリエイターは、ほとんどいない。

邦題が「エドワード・ヤンの恋愛時代」と例外的に監督の名を冠していることは、決定的に正しい。なぜなら、これが彼の最高峰だから。続く「カップルズ」では情動をフィーチャーし、遺作「ヤンヤン 夏の想い出」では憧憬を据えたが、誰の孤独も進化しない、という諦念は不変だった。

二泊三日の物語。主要人物だけでも9名になるが、群像劇ではなく、おしくら饅頭のように密接な関係性で、バウンスしたり、ローリングしたりと、展開には落ち着きがない。ドミノ倒しのような爽快感とは無縁。音楽で言えば、ストレートなロックではなく、変拍子のビートが延々続くミクスチャー。クラシックとヒップホップが隣り合わせでも違和感がないことの違和そのものを味わうと表現してもよいかもしれない。

同級生たちのコミュニティを中軸とした、富裕層ばかりの顔ぶれ。派手な演出家と、一線を退いた小説家。両脇に配された芸術家たちもまた、ハイソサエティの異種である。つまり、格差は可視化されずに、食うことには困らない者たちそれぞれの孤独がミルフィーユのように、折り重なる。

「恋愛時代」というタイトルは、いい意味でミスリードである。婚約者や親友、あるいは相談相手。パートナーと呼びうる存在が、ここでは性別を変え、シチュエーションを変え、様々に変奏される。これは、パートナーシップについての考察であり、人々はパートナーによって、初めて孤立を手にする。原題の「独立時代」は、台湾や台北のポジションについての批評でもあるが、勇ましい自立ではなく、否応なく孤立が訪れる魂の過程を、丹念に追跡する。

エドワード・ヤンの丹念さは、迅速で的確で後腐れがない。孤立する魂を見送るように、演出は紡がれる。フィックスで凝視したり、長回しで併走するのではなく、人物がカメラに支配されずに、カメラを置き去りにして、彼方へと去っていくシークエンスが幾つもある。孤立する者の動体への信頼が、ヤンの眼差しにはある。

ローラースケートでスタジオをぐるぐる回る演出家。書物に囲まれた部屋で引き篭もる小説家。夜が朝になり、また夜が来て、また朝が来る。

バラバラに映る、孤立する魂たちは、けれども、すれ違うことで、ほんの数日前より逞しくなっている。

何かが解決するわけではない。救済があるわけでもない。そう、孤独には解決も救済もない。だが、孤立したことには、確かに意味があるのだ。どの人物にとっても。

若きハイソサエティを中核に据えたのは、安易な共感原理に絡め取られずに、孤立そのものを浮き彫りにするためだったのではないか。

格差を視界におさめることを徹底的に拒否しているからこそ、孤立する魂たちは、2023年も現在形でここにある。

時代は動き続ける。だが、孤独は変わらない。そして、孤立には価値がある。

エドワード・ヤンは透徹した視点で、終わらない時代を見据えている。





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