寿司を食べるということ。

「寿司を食べるということ」(2011.3.9)

寿司は基本的に素手でつくられるものなので、こちらも素手で食べるようにしている。
握手するようなものだ。
自分なりの信頼の証。
事実、相手を信用していないと食べられないと思う。
別に衛生面の話をしているわけではなく、ある種、無防備に覚悟を決めないと無理な食べ物なのだ。
ごく一部の店を除いて、わたしは飲食店に通いつめることを、本能的に回避している。
特に、寿司屋は一度行っただけではわからない、ということがよくささやかれているし、実際たぶんそうなのだろうが、結局、自分が求めているのは、そういう深い理解などではないのだと思う。
手合い頭の一発。その感覚こそを求めている。
相手も、自分も、初対面の緊張があるから、ほんとうの無防備が訪れる。
馴れ合いは好きじゃないし、そんなことでは無防備にはなれないと思う。

質問したりしない。
話しかけられれば答えるし、美味しければ感謝を伝えるけれど、わたしが求めているのは相手から情報を引き出すことなどではないからだ。
相手を理解しようとするなんて、おこがましい。
できれば、お互い、フェアでありたい。
だから、素手で食べる。
素手で食べて、相手を感じたいのだ。
理解しないで、ただ感じていたい。

漁師のように浅黒い風貌の握り手。
精悍とか、野太いとか、いうのではない。
当たり前の生活者の匂い。
第一次産業のピュアネス。
さり気ない愛想に、人間としてのイノセンスが見え隠れする。
手数は多めで、しっかり。
七貫+鉄火巻をまとめて供する。
見事なほど、印象が残らない。
鮪も海老も烏賊もいくらも、忘却の彼方に消えてゆく。
ネタは厚めで、ふとんの上に座布団のせたまま、のようなふぞろいな感触だけが、口内に残る。
山葵は限りなく薄く、すめしは塩も酢もなにも主張してこない。
米が指にくっつくが、別に不快ではない。
かたくはないが、やわくもない。なにかが目指された形跡のないすめし。
二貫ほどつまんだところで、その空白に玉が置かれる。
そのことが、逆説的に、食べ物は食べたらなくなってしまうのだということを示唆する。
あら汁。野性的でも、繊細でもない、あら汁。
甘くて水っぽいけれど、オーソドキシーの感じられるガリ。
水の気がやや強いけれど、撫でるような優しさが感じられるお茶。

「ごちそうさま」

あ、このひとの上目遣いを、初めて見た。

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