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大杉漣からの「伝言」

 何度かインタビューさせていただいたことがある。長身だが常に低姿勢で、何よりも相手の話に耳をかたむけるひと。第一印象は、最後にお逢いしたときまで、ずっと変わらない。
 物腰がやわらか、ということはあまり重要なことではないと思う。もちろん、きわめて紳士的な精神の持ち主であることは間違いない。だが、それがライフスタイルの誇示につながったり、ポリシーの発露として顕在化するわけではない。やわらか、というよりは、丁寧。相手の話をちゃんと聴くために、丁寧に状況を創り出している。
 ほら、どこからでも、どんな話でも、してごらん。
 ことばにはしないけれど、彼が醸成する時間と空間はそんなふうに語りかけてくる。こちらが口を開けば、それをキャッチして、うんうん、とうなづき、咀嚼して、消化して、その上で、自分の話をする。
 質問者への敬意という次元を超えて、それは彼の人間として、いや、生きものとしての資質だったのだと思う。ひっそりとしているが、大いなる受動態だった。そんなふうに、初対面の相手とも、心と心のやりとりをする、押しつけのまったくない意志がある。コミュニケーション、ということに留まらず、誰かと一緒に「いま、ここ」を積み上げることのできるひとだと、記憶している。彼の残像の感触は、いまもわたしの中に現在進行形としてある。たしかにある。 

 ほぼ密室劇と言ってよい『教誨師』に彼が主演として招かれ、プロデュースまで手がけることになったのは、だから必然なのだと思う。密室とは、誰かと誰かとが、かけがえのない「いま、ここ」を生み出すことのできる場所なのだ。緊迫感よりは、誰かの胸からこぼれおちる空気と、誰かの身体が派生させる振動とが、行き交い、混じり合う情景こそを見つめすこうとする映画において、彼は作品の中心で、ひたすら相手の話を聴いている。
 佐伯保には過去がある。そのことを絞り出すように語る場面もあるし、少年のまま時が止まっている兄と会話するシーンもある。しかし、そうした吐露や救われる瞬間にしても、能動ではなく受動として存在している。このありようがここまでしっくりくるのは、大杉漣という俳優だからなのだと思う。
 密室の中に対話がある。密室だからこそできる対話がある。死刑囚と教誨師だからできる対話がある。自分の犯した罪を贖うために、近くの未来、遠くない将来に、死ぬことになる者の限られた時間の一部だからできる対話がある。
 そこでしかできない対話。そのときでしかできない対話。それは何かを削り取る作業なのかもしれない。痛みの可能性から目をそらさずに佐伯保は、相手を見つめている。教誨師が死刑囚を見つめるということがどういうことなのか。大杉漣のまなざしは、そのことを理屈ではない領域で体感させてくれる。教誨師に出逢ったことがなくても、死刑囚になったことがなくても、それは伝わる。たしかに伝わる。映画だから伝わる。生身の俳優が、生身の俳優のことを、ひたむきに見つめているから伝わる。

 対話の可能性は、ひとの数だけあるし、時間の数だけある。無数に存在する。6人の死刑囚が対話に求めているものはそれぞれ違う。ある者にとって対話は気晴らしである。ある者にとって対話は自分のおぼろげな思考にかたちを与えることである。ある者にとって対話は妄想かもしれない出来事を無邪気に述べる場である。ある者にとって対話は無言から饒舌にいたる過程である。ある者にとって対話は反芻であり自己との直面である。ある者にとって対話は対峙である。自分自身の存在証明をかけた闘いである。
 対話がはらむ、あらゆるヴァリエーションに佐伯保は付き合う。寄り添う、という保護者的な振る舞いではなく、おだやかではあるが、一対一であることに腹をくくっている様が届く。だから「わたし、ここにいますよ」という覚悟のことばに命が与えられ、しっかり息づく。わたしはここにいる。制限つきの時間と空間を生きるしかない者にとって、これ以上、たしかなメッセージがあるだろうか。この対話が終わっても、あなたの命が尽きても、わたしはここにいる。
 キャリアも違えば、性質も異なる6人の俳優たちを前にして、その都度、大杉漣がどのような状況を創り出していたかについて想起するとき、彼はインタビューという時空の中でも「わたし、ここにいますよ」とサインを送ってくれていたことに気づく。

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