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そこに人間がいる。大森立嗣『ぼっちゃん』

<想い出の2013年シリーズ>


『ぼっちゃん』


凝視する前に直視せよ
そこに描かれた人間を

 日本人であればほとんどの人が記憶しているはずの秋葉原で起きた2008年の事件。その犯人をモデルにした映画である。
 何が起こったかははっきりしている。彼がどのような状況下で暮らしていたかも大方判明している。事件当日ネットの掲示板に綴られた犯行声明と呼ぶにはあまりにも「ひとりごと」めいている言葉もさらされている。けれども私たちが本作で目撃するのは「あらかじめ想像できていた肖像」の再現ではない。
 映画は人間を描くメディアである。たとえば自然や動物しか映っていない作品があったとしてもそこには人間が描かれている。だから『ぼっちゃん』は事件の裏側や犯人に対する推論などを描いたりしない。ただ人間を描く。事件を起こしたのは人間だということを直視する。
 人間を見つめる際に必要なのは凝視ではなく直視である。人間を描くために必要なのは吟味よりも反射である。

美化も断罪も因果も
すべて放棄して反射せよ

 ここには美化もなければ断罪もない。美化とは「ごまかし」であり断罪とは「決めつけ」である。ごまかしていては人間は描けない。決めつけていたら人間は見つめられない。
 行動には原理がある。衝動には本能がある。しかしそれらを安易に結びつけ因果関係を証明しようとすれば人間は見えなくなる。因果関係と呼ばれるものはすべて捏造にすぎない。それは人間を要約してしまう道具にすぎない。人間を描くことは人間をまとめることではない。人間はまとめられない。
 彼は笑う。彼は泣く。彼は叫ぶ。彼は求める。
 彼の絶望は事件に回収されない。彼のかなしみは犯した罪に還元されない。彼の傷は誰にも罵倒できない。彼の魂を弄ぶ自由など絶対にない。
 ここには嘲笑はない。同情もない。あるのはみだりにたたえないこと。勝手におとしめないこと。
 映画は人間を描く。私たちは人間を見つめる。そこに人間がいる。ただそのことを肯定することだけが迫りくる。人間が人間を試している。私たちは全力でそれに応えなければいけない。 

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