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浮遊する好奇心が、台風として昇天する。相米慎二『台風クラブ』

相米慎二監督の代表作のひとつであり、日本映画史に輝く名作のひとつと言って、問題ないだろう。たとえば森田芳光監督の「家族ゲーム」がそうであるように。
無論、相米映画には熱狂的な観客が多数いる。ひとそれぞれで、相米の最高傑作は異なるだろうが、「台風クラブ」が突出した重要作であることに異論はないと思われる。
劇場公開から37年。たくさんの批評が書かれてきた。そもそもネタバレ云々の内容でもない。だとするならば、もっと自由に受けとり、自由に語ってもいいのではないか。
2022年夏の終わりに観て思ったことを、これから書いてみよう。それはたぶん、37年前には考えなかったことだ。

冒頭、小柄な少年が、プールに潜ったり出てきたりを繰り返している。
水面と頭部。
さざなみと彼方。
前進しながらの運動が何度か反復された後に、画面は水面だけになり、沈黙。
そうして「台風クラブ」という文字が、明示される。
静けさ。

あれは、あの少年が死んだことをあらわしているのではないか。

これが、わたしの結論である。

ひとりの少年の死から、映画が始まった。
彼が主人公であるかどうかはどうでもよい。この映画は、だれが主人公なのかよくわからないところがあって、東京に行く少女を主人公と言ってもいいし、飛び降り自殺をするエリート少年を主人公と言ってもいいし、少年少女たちすべてを主人公と言ってもいいし、単数か複数かではなく、学校を主人公にしても、台風を主人公にしてしまっても一向に構わない。
それより、小柄な少年は、既に死んでいる。そう仮定して、映画を眺めると、とても面白くなる。

主人公がだれであるか、ではなく、だれが、あれを見ているか、ということに気づかされるからである。

いや、すべては、あの少年が水中で見た夢なのかもしれない。すべては、夢の中の出来事。だとすれば、夢の主が、生きていようがいまいが、関係なくなる。

映画は、真っ暗闇の中で始まるが、少女たちの狂騒的なダンスは、あの世の光景を思わせないか。天国なのか、地獄なのかはわからないが、女の子たちが何も考えずに踊っている。それを水中から眺めていると考えると、本作はとてつもなくサイケデリックに思えるし、その後のすべての場外乱闘も、納得できる。

逆光に照らし出されるように、少女たちがプールサイドで勢揃いしている。

まるで、水中花。

エロスは微塵も感じないが、これはこれで桃源郷のようだ。

そして、野球部のふたりが走ってくる。
真夜中のランニング。
なんなのだ、あれは。
おかしくないか。
だが、わたしたちは、知っているのではないか。あの感覚を。
デジャヴ。
そう、夢の中で走っている感覚である。

あの木曜日の夜を、死者が見ている光景として捉えると、しっくりくる。

小柄な少年は、蘇生行為によって蘇生する。その光景を、死者である少年が幻視していると仮定したら。この映画は、万華鏡のようにカラフルに立体化するだろう。

勃起は、死後硬直の可能性だってある。

駆けつけた教師もまた幻視だとすれば。

ほんとうは死んでいるのに、死んでいる本人が死んでいることに気づいていないのだとすれば。

この映画は、合わせ鏡になる。無限。夢幻。

金曜日。少女は、台風を待っている。迎えに来てくれないかなと待っている。

小柄な少年は、教室にいる自分を幻視している。ひょっとしたら、教室に彼はもういないかもしれないのに。ひょっとしたら、教室に彼はいるかもしれないが、彼がもう死んでいることに、誰も気づいていないのかもしれない。

少年は、自分が死んでいることを忘れて、幽霊としてそこにいて、鉛筆を何本も鼻の穴に入れている。で、幽霊なのに、鼻血を流す。で、幽霊なのに、先生に怒られる。

浮遊霊の悪ふざけ。

浮遊霊の悪ふざけが、台風となって昇天する。

小柄な少年は、ドン・キホーテのようだ。小柄な少年は、精霊のようだ。

いずれにせよ、彼の巨大な無意識が、台風に変貌し、やって来る。

そうして、ひとりの少女を東京に連れ出し、他の少年少女たちを学校に閉じ籠める。

浮遊霊は、自分も込みの、その光景を眺めている。たのしそうに。好奇心たっぷりに。

教師とその恋人の戯れ。
大人の世界を覗き見ているかのような距離感の映像は、実際に浮遊霊が覗いているからではないか。

そもそも騒動の発端となる場面で、カメラアングルがめちゃくちゃなのは、浮遊霊が気ままに移動していたからではないか。浮遊霊の視点で、画面がかたちづくられているからではないか。

少年は小柄ということもあり、性的な匂いがほとんどしない。だから、少女に対して、そのような興味が感じられないし、同級生に嫉妬することもない。性欲や嫉妬のない、純粋な好奇心。やはり、精霊だ。

エリート少年とその兄、そして少女。3人の部屋を覗くときも、純粋な好奇心しか感じられない。霊だけが可能な、横移動。そんなふうにして、映画は横切っていく。

台風が近づき、教室は不穏な空気に包まれ、やがて生徒全員による乱闘が始まる。

あのシークエンスで、小柄な少年が、やたらキックしていることは示唆的だ。蹴っ飛ばすという行為は、「ただいま」「おかえり」の少年が、意中の少女に襲いかかるときに、反復される。

小柄な少年=浮遊霊は、やがて、つぶやく。

「たぶん僕がいちばん早く雨を見た」

当たり前だ。
彼自身が台風なのだから。

ラスト。
東京から少女が戻ってくる。小柄な少年と一緒に登校する。

「金閣寺みたい」

あのとき、小柄な少年はほんとうにいたのか。
そばにいたのは浮遊霊ではなかったか。

不思議な映画の、不思議な余韻を解く鍵が、ここにあると思う。





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