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音符のような黒眼。小川紗良監督の『海辺の金魚』が見つめるもの。

 甲斐博和監督の『イノセント15』で、小川紗良を初めて知った。出口の見えない時間を生きる15歳の少年少女の逃避行劇。そこで、あまりに過酷な日常を生きるヒロインを演じていたのが撮影当時18歳の彼女だった。不幸のどん底にありながら、不屈の透明感をまとっている。原石の輝きにハッとさせられた。いまでも、あるシーンの彼女の貌が、忘れられない。
 岩切一空監督の『聖なるもの』では、その先にある独自性を伸びやかに発揮した。4年に一度現れるという「伝説の美少女」に出逢い、映画作りを開始した男子大学生の物語。小川は「美少女」ではなく、独りよがりになりがちな主人公を辛辣に諭す女子大生に扮した。自分の監督作を準備していながら、請われて女優として参加したという設定が、高校生のときから映像制作を始めた小川の実人生に重なる。冷ややかな排他性と、引き受けたからには何が何でも全うするド根性が不思議な同居を見せるキャラクター。ときにムーディに流れがちな映画にしっかり楔を打つアクセントとして機能していた。
 彼女の主演作『ウイッチ・フイッチ』を撮った酒井麻衣監督は、小川紗良を「監督仲間」と呼ぶ。小川はインディーズシーンにおいて、「撮る側」と「撮られる側」を行き来してきた。
 昨年公開された本広克行監督の『ビューティフルドリーマー』では、大学映研で「呪われた映画」を監督することになる主人公を体現。まるで小川紗良自身をモデルにしているかのよう。ここでは、ピュアネスとマイペースさが無邪気にデュエットする奇妙な味わいの演技で作品のムードをかたちづくった。

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 女優が監督を志すようになる例はいくつもある。だが、被写体として「選ばれた」タイミングと、映像制作を「選んだ」タイミングが一致する女性はなかなかいない。小川紗良は、彼女だけのタイミングで、「撮ること」を「撮られること」に活かしながら、また、「撮られること」を「撮ること」に活かしながら、有機的なキャリアを育んできたように思える。
 長編第1作となる『海辺の金魚』には、すでに「小川紗良」としか言いようのないオリジナリティが見てとれる。
 小川紗良の短編『最期の星』でデビューした小川未祐が主演。おそらく撮影時、小川未祐は、小川紗良が『イノセント15』に出演したときと同じくらいの年頃のはず。もちろん、このシンクロニシティは計画されたものではないだろう。しかし、「撮る」=「撮られる」の関係性を生きてきた小川紗良のキャリアについて考えるなら、この一致にも、小川紗良の作家性を感じざるをえない。
 『海辺の金魚』は、少女、花のまなざしによって構成されていると、まずは断言できる。正直なことを言えば、児童養護施設で過ごすことのできる最後の夏を迎える18歳、という主人公の設定すらどうでもよくなるくらい、わたしは花の視線に魅せられた。うつくしいからではない。不定形であり、異なる要素が混在しているからである。そして、その瞳は、『イノセント15 』のときの小川紗良の目に似ている。とても似ている。
 決定的だったのは、花が晴海に最初に対面し、至近距離まで迫った挙句、完全に拒否されたとき、小川未祐が見せたまなこのありようである。
 近景と遠景が同時にある。すぐ近くの晴海を見ているのだが、どこか遠くを見てもいる。怯えと、憧憬。不安と、懐かしさ。混じり合わせたくないものが、ふいに事故のように混じり合ってしまったような居心地の悪さが、その眼球には宿っており、一瞬の諦めと、果てのない動悸とが、初めてのデートのようにたどたどしく一緒にいた。
 映画を観終えたあなたならわかっているだろうが、花が見ていた「どこか遠く」とは、かつての自分ではある。だが、そのような理屈を超えた、未分化な、彼女自身にはどうすることもできない感覚=感情の発露として、あの最初の黒眼はあった。
 映画には、理由のないものが映る。まだ、名づけられていないものが映る。だから、わたしたちは、惹きつけられる。そのとき、物語も、背景も、必要なくなる。
 あのまなざしは、その後、何度かリフレインされ、変奏されていく。視線の変奏曲。演じ手の瞳が、何よりの音楽だ。
 たとえば、読み聞かせをしている最中、ふと、空白になる花の目。あるいは、バスタブに潜る直前の、遠景と近景を一緒に呑み込むような花の眼球。
 彼女の黒眼は、音符のようだった。

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