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弱小な私だって、いつかは立ち向かわなくてはいけないから

 Twitterで起業家さんや名前の後ろに「@●●を△△に!」「@▲▲を□□の力で解決するひと」みたいなのをつけてる人たちの、ちょっといい言葉をやたらとイイねする人をうっかりフォローして以来、私のタイムラインはずいぶん屈強な言葉で溢れるようになってしまった。
 そうは言ってもTwitterというプラットフォーム、賢い人たちは前向きな言葉だけを並べているわけではなく、みなさん過去の挫折や立ちはだかる困難なんかも、ユーモアを交えながらつぶやいておられる。いずれにしても今の私には、そういう自分の進むべき道を知ってそれに邁進している人たちの言葉は眩しくて胸が重くなる。

 私はこれまで少なくとも仕事については逃げて逃げてここまで来た。若かりし頃はわりと優等生然と生きてきたつもりだったのに、いつの間にか昔のアニメのダメ主人公のように何をやっても中途半端な役回りを、まさか自分が体現するとは思ってもみなかった。

 いや、勝手に優等生ぶっているがよくよく考えてみると私は小さい頃から何をやっても飽きっぽく、時間を忘れて心から夢中になれるものなど何も持っていないのだった。書道、ピアノ、珠算、、、子供の頃やりたいと言ったことは何でもやらせてもらえたくせに、何かを極めようという気に一度もなったことがなく、大人になって始めた茶道や合唱も到底身についたとは言えない。いつの頃からか何かを極めようとするなら、そのための方法論は自分なりに身につけていかなくてはいけないということがわかってきたが、自分の中で0を1に変えていく気力と能力が伴わなかった。歳を重ねるにつれその傾向は顕著になり、社会人になってからはこのままこの仕事を続けていても先輩たちのように職務を全うすることができないのではないか、いつかは乗り越えられない壁が目の前に立ちはだかるのではないかと自分自身に先回りして疑心暗鬼になり、早々にその道を極めることを諦めてべつのラクな道を探す、その繰り返しだったように思う。途中精神を患い、実質的にも十分なパフォーマンスが示せなくなったことを免罪符にその後ものらりくらりと生きてきた。

 そして現在。相変わらず週五日間出勤しているけれど、大して興味の持てないまま仕事をこなしている。お客さまにご迷惑をおかけしない程度には真面目に働こうとは思っているが、その一方で迷惑くらいかけてもいいか、とも思っている。
 だからたまに置かれた場所で咲きなさい、みたいな言葉を聞くと、自分のことを批判されているようで嫌だった。辛い時に別のステージに移って働くことがこらえ性のない、いけないことのように言われている気がしたから。

 そもそも私は最初に勤務していた企業においても次に転職した医療機関においても、いくらしんどい思いをして頑張り続けたところで、素晴らしい成果を得て人々に賞賛されるといった類のものではないことはわかっていた。私は学者でも研究者でもなく、一社員一職員として調整役、緩衝液のような役割をしているに過ぎなかった。
 そのくせ大した努力もしないまま、一夜にして何か奇跡的な幸運が舞い降りてきて、有名になって多くの人にちやほやと賞賛される日が来ないかなとぼんやりと夢みていたりもした。だからこそいくらこのまま愚直に歩み続けたとしても、そこへは辿り着かない道をとぼとぼと進んでいる自分がとても惨めだった。

 木に縁りて魚を求む。

 いつの日にかその言葉はいつも私の頭について回り、そのひやりとした手触りを持つ響きは妙に腹に落ちていた。

 「今いる場所で目の前のできることに邁進しなさい。」「一度しかない人生自分のやりたいことをやったほうが後悔しない。」二股に別れた道の前で私は立ちすくむ。もういい加減私は逃げたくない。自分にがっかりするのはもううんざり。かと言ってこれまで物事を潔く決めたことなどない私が、錆びついた反射神経を急に働かせることもできない。
 「残された時間はそんなに長くはないんだから」「このままだと悔いが残るよ」自分の底から湧き上がってくる邪悪で根源的な囁きに耳を塞いで、深呼吸して温かいお茶を飲み干してようやく決めた。今できる仕事は続けながら、やりたいと思っていたけれど手が届くはずなんかないと勝手に諦めていた文筆を生業とすることにも挑戦し続けよう。

 Twitterのイイねをタイムラインに流れてこないよう設定し、今私はこのような息苦しくも内向きな文章を書いている。

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