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誕生日はいくつになっても

 歳を重ねていくうち、ある時点を過ぎると誕生日が嫌だ、誕生日なんて来てほしくない、誕生日も普通の一日と同じように過ごして普段どおりご飯を食べていつもの時間に寝る、と言う人が一定数いることに気づく。その気持ち、何となくわかる気もするけれど、何だかもったいないな、って思ってしまう。もう四十代を折り返そうというのに、私は未だに誕生日は365日の中で唯一わがままを言っていい、お姫さま扱いしてもらってもいい日だ、などと思っていたりするのだ。

 そんな歳にもなっていまだに?と言われるかもしれないが、私は誕生日がすごく好きだ。とてもいいものだと思っている。あまねく人たちからのコンセンサスは得られないかもしれないけれど、やっぱり誕生日は堂々とちやほやされていい日だと思っている。
 そんなことを言うと、さぞかしこれまで素晴らしい誕生日を過ごしてきたんだろうと思われるかもしれないが、全然そんなことはなかった。

 元々友達が少ない私にとって、周りから自発的に誕生日を祝ってもらえる機会はそうそうなかった。寂しい誕生日を過ごすことが多い人生だった。
 そのことに嫌気がさしたある歳の誕生日、私は恥をかなぐり捨て自ら友達を呼び出して、お気に入りのちょっと洒落た居酒屋で、自ら誕生会を催すという暴挙に出た。心の底から聞こえてくる「一体何様なんだか。全盛期の山田邦子かアイドル時代の西田ひかるのつもり?」という囁きにすべて耳を塞いで。
 とは言え「誕生日だからお祝いしてよ!」とストレートに言えるまでの率直さと厚顔さを持ち合わせていない私は、唐突に「伊勢原から大山の春山ハイキングして、夜海老名で飲もうよ!」と呼びかけた。友達たちは優しく、誕生日のことは伏せられたまま集められたにも関わらず、プレゼントをもって東京や埼玉からわざわざ神奈川の県央まで来てくれた。恋人にも仕事上がりに来てとお願いした。神奈川での暮らしはしんどいことのほうが多かったけれど、穏やかでかっこいい彼氏もできて、何とかやっていけるかもしれない、って自分に知らしめたかったのかもしれない。でも彼は約束の時間を過ぎても現れなかった。いつもならとっくに仕事が終わっているはずの時間になっても、途切れ途切れにしか連絡が取れない。「今どこにいるの?」「大丈夫?」メッセージを送っても、要領を得ない答えしか返ってこない。時間がどんどん過ぎていき、遠くから来てくれている友人たちはそろそろ帰らなくてはいけない。結局彼らから慰めの言葉を集めるようなみじめな展開を迎え、皆を見送ったところで彼は駅に姿を現した。見世物にされるのが嫌だったからと言われた。無神経なことしてごめんなさいと思う反面、だったら最初から行かないと言ってくれれば、皆を待たせていたずらに気まずい時間を過ごすことにはならなかったのに、とみじめな気持ちで薄ら寒い駅からの道を歩いた。これは後にわかったことだが、彼はある新興宗教の教会に勤めており、その教団が立てた党から前回に続いて次の選挙にも出馬するかもということで、誕生日関係なくゲイばれする可能性のあることはしたくなかったというのが本音だったらしい。私といるということはすなわち彼にとってはスキャンダルの種だったのだ。彼が次の選挙に出る前に私たちは別れた。
 別の恋人には誕生日を毎年忘れ去られるということもあった。誕生日当日唐突に彼の友達たちから飲みの誘いがあり、サプライズ的に彼が現れるのかなと思ったらそれは単なる偶然で、結局最後まで彼がやってくることはなく、何も起こらないままだった。私は胸苦しさに耐えられず、今日が誕生日であることを言い洩らしてしまい、結果的に彼氏の友達に誕生日ケーキを奢らせてハッピーバースデーを歌わせてしまうというただただめんどくさい男に成り下がってしまった。

 歳を重ねてから誕生日を迎えるということは、大人になることや成長することではなく、老いていくこと、できることに少しずつ制約がかかってくることにほかならない。カッコよく生きているお手本みたいな人たちが、いくらオプティミスティックなことを言っていてもそれは変わらない事実だ。私も、あなただって日々可動域は狭くなっていく。

 それでもやっぱり誕生日は素晴らしいものだと思うのは、素晴らしい誕生日を過ごせた歳もあったこと、そして素晴らしい誕生日を祝ってあげられたことがあったからだと思う。

 就職して六年目、重度のうつ病のため長期休職し、何ヵ月も実家の布団から出られずに苦しんでいた頃。一日中、世界と自分自身を呪っては先の見えない不安と苦しみに悶えながら、時間だけが無為に過ぎいく。同期は新薬の承認申請に向けて次のフェーズに、あるいは全く新規の創薬テーマに関わっていくのに、私は何もできずにベッドの中でうずくまったまま三十回目の誕生日迎える。私は不意に思い出した。療養前からずっと暖かく見守り励まし続けてくれている、東京在住のひとまわり年上の友人は私の五日前に誕生日を迎える。長期にわたる引きこもり生活のせいで、見た目も頭もどろんと現実世界のスピードについていけない中、勢いだけで高速バスに乗り込み渋谷まで彼の誕生日を祝いに行った。なぜそんな思い切ったことをしたのか、未だに思い出せない。でもあの当時何を見ても希望を見い出せず、明日どころか今晩眠りにつくことさえ絶望していた私をあたたかな視線で見守り続けていてくれたその友人に、正面切って感謝の気持ちを述べるための唯一の言い訳が誕生日だったのだと思う。
 私は渋谷マークシティのおしゃれなレストランでバースデイディナーを予約して彼の誕生日祝いをし、当然のように彼も私の三十路を喜んで祝ってくれた。私がその時彼に贈ったのは、当時流行っていたまあまあな大きさのリラックマのぬいぐるみだった。いくら彼がそのキャラクターが好きだったとはいえ、ダンディで紳士のお手本のような大人の男性にあんな後先考えないインパクトのあるものを送るとは、今考えれば軽く躁転していたのだと思う。その後元気だった頃通っていた桜丘町のバーで遅くまで飲んで、そのまま深夜バスに乗り込んで京都に戻ってきた。それがきっかけで病気も好転し無事社会復帰を、という風にはもちろん簡単にはいかず、その後も病気との付き合いは長きに及んだけれど、自分の中で大きな節目だと感じていた三十歳の誕生日のひとときを、敬愛するかけがえのない友人と楽しく過ごせたことは、今でも自分の中に温かく残る大きな財産だ。その日、レストランのスタッフが撮ってくれたポラロイド写真がまだ手元にある。この日から十五年経った今月、また互いの誕生日を祝うために今度は新宿で待ち合わせた。ポラロイドを見て私たちは爆笑した。当時精悍な青年だった私は今や二十キロ近く増量して別人のようだし、逆に友人はずいぶん痩せて、写真からも匂い立ちそうだった当時の色香や毒気が嘘のようにさっぱりとしてしまっていった。それでもこうやって長年にわたって遠く離れていながら親交を温め続けられたのは、渋谷のこの一夜の〇泊三日弾丸バスツアー、そしてその後も三月のたび何らかの形で互いに歳を重ねることを祝い続けていたおかげだと思う。

 誕生日が素晴らしいのは、大切にされていると感じられる時間を共有できる尊さもあるが、これを口実に、愛する人を手放しで祝い、喜び、励まし、感謝できること。普段なら照れくさくてなかなかできないことを大手を振ってできてしまうこと。そしてそんな時に何かを伝えようと人の気持ちが動く、そんな瞬間に立ち会えるかもしれないからだと思う。恋人にサプライズで焼いたケーキをこっそり隠し持って行ったつもりが実はとっくにバレていたり、子どもの頃母親の誕生日会と称して姉妹三人で音楽会を開いたら、酔っぱらった父にヘタだと文句をつけられて姉妹でわんわん泣いたり。喜んでもらうための仕掛けは難しくて子どもの頃から今でも変わらず頭を悩ませるけれど、やっぱり誕生日は花と蝋燭で祝う特別な日にしたい。これからも、その時一緒に過ごすのが家族であれ恋人であれ、たとえもしもひとりであったとしてもそうしたい。心からそう思う。

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