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#24-079 わたしを仕立てる

「おぉ、おはようございます」

スクリーンに集中していると、誰が来たかわからない。「おはよう」と言ってわたしの席の後ろを通り過ぎていく長に、おもわず「おぉ」と言ってしまった。長は「おぉとは何なぁ、おぉとは」と、笑いながら去っていった。
ごきげんだな。

「ボロがでる」と言われる。
「ボロが出んように気をつけなさいよ」と、いつか母に言われたことがある。そのときは「ボロなんて持ち合わせてないわ」とおもっていた。「ボロ」が何なのかもわかっていなかったのに。

「ボロ」とは。

「襤褸」
漢字で表現するものだとは知らなかった。
(意味は調べてくださいませ)

じぶんには欠点なんてない。
欠点を欠点だとおもわない。
そう考えるようにしていた。
いつかどこかでそんな話になったときに、「欠点がないひとが離婚するかなぁ」というひとがいた。
そのひとは、離婚したのはわたしが悪くて、わたしに原因があるとおもっていたのだろう。
わたしはそのひとのことばにとても嫌悪感を抱いた。どうしてもそのことばが残っていて、今でも気分が悪い。
もちろん、じぶんに非がなかったとはおもっていない。わたしに原因がなかったわけでもない。だけど「欠点がないひとは離婚しない」という、そのひとの考えがどうも気に食わない。「欠点」と「原因」は違うだろう。あのときのあの横顔が忘れられない。

「欠点なんてものはない」
「欠点なんかじゃない」
と言いたいところだけど、
じぶんに欠点がたくさんあることは
わかっている。欠点だらけだ。
「襤褸」だ。

「おんぼろ」とか「ぼろくそ」とか、
最近では言わないのだろうな。
「ぼろかす」はときたま聞くな。

「ぼろー!」
と叫ぶ姉妹の声が、頭に響く。
愛嬌のある悪口。

欠点を隠そうとか、出さないようにしようとはおもっていない。隠す前に出てしまうということもあるけれど、隠すことができるほど器用でもないのだ。もしかすると、それ自体が「欠点」なのかもしれない。
じぶんを誤魔化したり、繕ったりするのは性に合わない。なんていうとかっこいいのかもしれないけれど、愚直なだけなのだろうとおもっている。もっとうまくいろんなひとやいろんなことに対応できれば、今とは違う道が開けるのではないかと考えている。

じぶんを変えることができるのは
じぶんだけ。
周りに何を言われようと
どんなふうにおもわれようと
じぶんで動かなければ何も変わらない。

「襤褸と鋏は使いよう」
ってことばはないけれど、
「欠点」を活かすことは
できなくもないかもしれない。
材料はいくらでもある。

じぶんを使いこなそう。
「襤褸」もうまく使えば
美しいドレスに
仕立てられるかもしれない。

aico.

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