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#23-085 話をしよう。

雨の日曜。
休みの日、何の予定もなければ、たいてい何もしないで午前が過ぎていく。昼食の支度をしなければならない時間まで、何もしない。休みの日に予定が入っていることもほぼないので、休みの日にはいつも何もしていないことになる。そして、午後からは高い確率で寝る。そんな具合だ。
来月からは、そうはいかない。「休みの日」が毎日になるからだ。3月末で仕事を終える。わたしの「休みの日」は、ひとまず今日で最後となる。
これを機に、わたしはじぶんのライフルタイルを見直し、健康的に過ごすように考えている。「健康的」が何かはよくわからないけれども。

子どもが中学に上がってからの1年間、朝4時に起きてお弁当を作り、朝食を食べずに6時ごろに仕事に出かけ、ひたすらにパソコンに向かって19時ころに帰宅するという生活を続けていた。その前も、家にいるよりも、職場にいる時間の方がとても長かった。子どもと一緒に食事をとることも、所謂「親子の会話」というものも、とても少なかった。それが約3年ほどの間、続いていた。
これからも4時に起きてお弁当を作るのは変わらないけれども、子どもと一緒に過ごす時間、話をする時間を増やしたいとおもっている。

わたしは、普段から自宅であまり話をしない。親とも、子どもとも。
家ではたいてい、母と息子と一緒に過ごしているのだけれど、わたしが何か言えば、母が求めてもいない意見を言ってきたり、わたしの発言に対して否定的なことを言ってきたりする。それがとても苦痛なのだ。わたしが子どもと話をしていても、母が割って入ってくる。そして、わたしのことばを批判したり、じぶんの意見を強制的に通そうとしてくる。いつもそう。何も言わないときは、彼女が不機嫌なときだけ。
わたしが子どもに何か言えば「あんたが言えることではないだろう」、わたしが何も言わなければ「どうして何も言わないの」というのが日常。何を言っても何も言わなくても、わたしは責められる。それがとても嫌なのだ。そして、子どもの悪いところは、全部わたしが原因だという。
わたしが家にいない時間、母が子どものことをしてくれているし、わたしができないことを殆ど対応してくれている。それには本当に感謝している。わたしよりも、母の方が子どもと一緒にいる時間が長いのだ。わたしはそれがとても心配でもある。母の言動が、子どもに影響していることが多いだろうとおもっているからだ。母の批判的・否定的なことばが、日々子どもに向けられているとおもうと、子どもに良い影響とはなっていないことは言うまでもない。彼にとってのストレスにもなっているのではないかと案じている。わたしが家にいたとしても、母からのことばは変わらないだろうけれど、少しは緩和できるはずだ。わたしが家にいる時間が長くなることで、少しでも、子どもにとって良い状況になればいいとおもっている。

収入は大事だけれども、それよりも大事にしなければならないことを、これからは大事にしていきたい。

家だけではなく、職場でも他でも、わたしはあまりひとと話すことはない。姉はそうではない。姉が来ると、母とずっと喋っている。ずっとだ。とてもよく喋る。というより、姉は誰とでもよく喋る。わたしとは正反対だ。姉がよく喋るのを聞いているのだけでも、わたしはとても疲れてしまう。わたしが姉のように誰とでもいくらでも話すことができれば、と考えることもあるけれど、考えただけで苦痛になってしまう。わたしはきっと、すぐに黙る。ある意味、姉を尊敬している。

以前、「会って、話すこと。」という本を読んだ。オーディオブックでも何度か聞いた。この本を読んで、わたしはあまり話さない方がいいかもしれない、と感じた。今までもあまりひとと話すことはなかったけれど、それ以上に話すことがなくなったようにおもう。わたしが話すことは、話さなくてもいいことばかりなのだ。会話は大事だけれど、内容はもっと大事。この本もまた、読み返しておきたいとおもう。いや、オーディオブックを聞こう。

ひとと逢うことは嬉しいことなのだけれど、「逢って何を話すか」と考えると「逢わなくてもいいかな」ともおもってしまう。わたしのだめなところだ。
逢いたいひととは、話さなくても逢えればいいだけなはずなのに。逢いたいとおもっていても、逢えないのだけれど。

逢いたいのに。

逢いたいひとに、逢いに行こう。
逢いに行けるように、頑張ろう。

話を、しよう。

aico.

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