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私の山靴史

私の足をずっと守ってきた登山靴。いったいいつからの付き合いか、記憶をたぐってみた。


【ワラゾウリ】
昭和1943年、第二次大戦中で私は小学校5年生。戦争は生活を圧迫し
ズック靴が手に入らない。小学校高学年が行軍(ハイキング)の計画がある。
行き先は亀山市から鈴鹿峠まで往復すると30km もある。先生の指導で自分が履くワラゾウリを2足ほど自作した。出来ばえは悪いがそれを履いて出かけた。大人でもバテる距離だ。子供の足では行けるものではない。結局、
ダウンする者が増え、関宿と坂下宿の中間あたりで引き返した。だがこのと
き覚えたワラゾウリの作り方はいまも忘れてはいない。


【日本陸軍の軍靴】
1945年、中学1年のとき終戦。戦後に新品の日本陸軍の軍靴をヤミ市で買った った。甲皮は牛皮の裏側を使用してある。保革油をべっとり塗る。底は一面丸い鉄鋲が打ってあった。だが鈴鹿の山ではすぐ丸鋲が磨り減る。それに甲皮と底皮の縫い方が一重縫い、その糸が切れると水が入る。私は子供心にも「これじゃ戦争に負けるわけだ」と思った。


【バスケットシューズ】
1948年、中学卒16才で就職、職場山岳会で先輩から指導を受けた。鈴鹿の山、経ヶ峰、青山高原によく登った。まだ市場には登山靴はなく、美ヶ原、霧ヶ峰、白馬三山へは、当時くるぶしまで覆われたバスケットシューズで登った。


【米軍改造靴】
朝鮮戦争が始まると登山用具店に米軍の放出品が出廻る。私もコンロ、ポンチョ、寝袋を買った。
靴サイズが大きいのを日本人向けに改造し、底には溝のあるゴム底を付けた。日本陸軍軍靴よりはかなり上等だが、鈴鹿の花崗岩の山では上皮と鋲がすぐ摩耗した。


【鋲靴】
1953年、安月給だが山だけは毎週出かけた。山の雑誌も「山」「山と高原」「山と渓谷」「岳人」が出た。広告欄には美しい皮登山靴が載っている。私もほしくなり貯金をはたき、名古屋東新町の手造り山靴屋で金8000円で製作した。これを低い山も高い山も岩場も履いて出かけた。だがクリンケル、トリコニーの鉄鋲が摩耗する前にポロッと抜ける。抜けた穴から水が入る、これには参った。


【合成ゴム底靴】
1954年、数年前からキャラバンシューズなど、合成ゴム底とナイロンの軽登山靴が出回ってきた。初めて買った皮登山靴が「マンケシュー」。名前は欧米風だが国産粗悪品だった。甲は牛皮で光沢があるが、底と甲皮がコバ縫いでなく一重縫いですぐ糸切れだ。それにゴム底の溝トレッドが磨り減る前にポロッと欠けるのだ。頭にきて山岳会の後輩にくれてやった。


【ビブラム底】
1962年、この頃からイタリーのビブラム社の合成ゴム底が出た。これは優れた製品だった。
溝トレッドの磨り減りが少ない。日本やドイツ、オーストリアなどの登山靴も最初は自社のゴム底を使用したが、そのうちビムラム底に変えてしまった。幾度も製品は改良されたが、今日まで世界一の製品と思っている。甲皮が牛皮で靴がビブラムのは4足ほど履きつぶした。


【軽登山靴】
1990年、はじめはザンバランやアゾロ社の皮製靴、甲皮は表皮を
使用したものを履いていたが、だんだん布や化学繊維の軽い靴に変
えた。長所は軽いので長時間の歩行が楽になった。防水は完璧でフィット
感は満足できる。長持ちしないのが欠点だが、摩耗すればどんどん新しい
のを買えばよい。2013 年のいま履いているのは6足目である。


【現在】
冬山用にホーキンス皮製登山靴、無雪期用に無名の合成繊維製品の
軽登山靴を使用中。

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