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三岳寺址と「界」の石

 「界」の石という石があります。それは石の表面に大きく「界」と刻みがあるためです。場所は国見岳山中の三岳寺址ちかく、割谷頭(786m)といわれるピークに座っています。
 ひと昔前までは人に知られることもなく、静かな日々だったのですが、最近ではわざわざ石を見に来る登山者が増え、騒々しくなりました。彼らは口々に
「江戸時代、麓の村人が入会権をめぐって山争いをした…」
と噂して帰りますが、実はそんなに古いものではなく、戦後の昭和27年に彫られたものなのです。
石の由来話を聞いてください。
 いつの頃からか、国見岳の山中に天台宗冠峰山三岳寺(三嶽寺とも称される)が創建されました。多くの僧侶たちが修行に励んでいましたが、最盛期には七堂伽藍がそびえたち、数百人の僧兵を抱える大寺院だったといわれます。もっとも辺鄙な山奥で、多数の僧兵が起居できるはずがないと云う人もいますが…。
 ところが戦国時代に入ると、織田信長の兵火にかかり、すべてが焼け落ちて無残な廃寺になってしまいました。
 もともと、この寺と背後の国見岳は一体のものとして、菰野村が入会権を持っていたのです。菰野村では古来から鎌ヶ岳、御在所岳、国見岳の三山を三岳寺付のものとして考えられていました。従って三岳寺と国見岳とは切っても切り離せないのです。
 信長の焼き打ちによって廃虚となっていましたが、間もなく隣接の千草村との間で山境紛争が起こりました。
「三岳寺址は千草村のものだ」
「いや昔から菰野村の所属だ!」
 争いは絶えません。これは遺跡から結構高価なものが出土するので、村人たちが堀りだしては売却したことからともいわれ、地籍がどちらかは大きな問題でした。更に千草村は桑名藩板倉氏、菰野村は菰野藩土方氏支配という複雑さもあって、山境紛争は地元で決着が出来ず、幕府寺社奉行の裁定に持ち込まれました。
 そして寛文12年(1672)
「三岳寺の旧跡は千草村に所属する」
と決裁されたのです。これを知って菰野村側は呆然とし憤慨しました。だが幕府の威光には逆らえません。しぶしぶこれに従ったのでした。
 それから30年ほど経った宝永元年(1704)のことです。千草村にあった一向宗浄願寺が、こともあろうに“冠峰山三岳寺”と改称したのです。これを知った菰野村では
「天台宗と何のゆかりもない一向宗の寺が、勝手に三岳寺を名乗るとは…、このまま黙って見逃がせば、数年のうちに国見岳もほかの鎌ヶ岳も御在所岳も みんな千草村のものなってしまうぞ!」
と恐れ、三岳寺の再興を模索したのです。寺の新設は幕府から許可にならないので、
宝永2年(1705)には
「菰野湯ノ山にある薬師堂を三岳寺に称号を移したい」
と、藩主土方氏から天台宗三岳寺の本山にあたる比叡山本覚院に願い出ました。ところが幕府を恐れた本覚院からの回答は
「寺院の新設や再興は禁令に触れるので無理である」。こんな具合でした。
 そこで菰野村では菰野藩主の政治力を借りて本覚院ゆさぶろうと図りました。そして、
「現在、存在がはっきりしなしが、菰野の三岳寺は昔から天台宗の末寺だった」
という“本末寺証書”を取りつけることに成功したのです。天台宗系列の寺だったことは、三岳寺が菰野村に所属することを認めた有力な傍証になります。そして更に享保5年(1720)になると、再び藩主を通じて今度は日光門主に宛て、「御門主さまの御威光をもって斡旋を御願いします。湯ノ山薬師堂を三岳寺と 改称したいので、本山の本覚院に働きかけを御願い申し上げます」
と、追い打ちをかけたのです。徳川家康の威光を借りた工作は威力を発揮しました。本覚院は折れました。三岳寺とは縁もなかったはずの薬師堂を「これ以後、三岳寺と称し昔からある薬師如来を本尊とすべし」と認めたのです。これで力を得た菰野村は幕府のきびしい禁令を無視して、つぎにはどうどうと一寺を強行新築してしまいました。そしてこれに冠峰山三岳寺の名称を付けたのです。三岳寺建立の最終目的を強行して達成したわけです。ここに至ってついに本山の本覚院も認めざるを得ません。正式に住職を派遣して管理運営を始めました。
 再建後の三岳寺も順調に推移したわけでなく、寺の運営で村と対立したり、住職を村が追い出したり。あるいは無住の時代もありました。しかし近世に入って完全に人々の信仰を得、参詣の人波も絶えることがありません。
 最近では温泉の湯元近く立派な鉄筋の寺が完成しました。江戸時代の紛争の経緯でも、国見岳の遺跡は菰野の地籍という結果なのですが、このままでは寛文12年の江戸幕府の裁定
「三岳寺跡と国見岳一帯は千草村のものである」
との矛盾が生じます。それでは菰野側としては、どうしても納得がいきません。そこで戦後になって再びこの境界問題を持ち出したのです。昭和27年4月、菰野財産区と鳥居道財産区の代表は、双方現地で立ち会いました。そして綿密な測量調査を行い、境界を決定し合意をみたのです。
 このとき、後日に紛争が再発しないよう協定書を作成しました。また尾根上の境界線の両端にある大石に「界」の文字を彫刻し、はっきりと境を定めたのです。


 御在所岳や国見岳の山頂にたどりつく山登りもよいのでしょうが、たまには登山道から外れた場所にも寄ってみてください。「界」の石のような歴史の遺産が、まだまだ残されていると思いますよ。

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湯の山:三岳寺

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