見出し画像

遙かなる北千島の山

昭和12年ごろ私の父は北千島にある幌筵島(ぱらむしるとう)の無線電信局勤務となり、単身赴任していた。
翌年の夏に母と一緒に父を訪ねた記憶がある。いまはロシア領となっているが、船で島に向かうとき深い霧の中から高い山が突き出ていた。大人たちが「あの山は北海道で一番高い」と、云ったのを母が覚えており、後になって私にそれを教えてくれた。

画像2


この時代、千島列島は北海道の一部とされていた。たしかに大雪山旭岳(2291m)より高い。
それがアライト富士(2339m)。この山に初登攀したのが、北大の学生、伊藤秀五郎だった。
大正15年7月2日、伊藤と学友の小森は阿頼渡島に到着した。函館を出航して以来、濃い霧の中の毎日だったので、息がつまりそうだった。
この島は周囲50㎞ばかりの北の孤島である。海岸からすぐアライト富士となる。島全体が火山なのだ。彼らはボートで船を離れ南湾に上陸した。冷たい霧雨が降って夏草もまだ伸びていない。同行した漁師たちはすぐに基地小屋を建てた。小屋の生活は楽しかった。
ストーブにハンノキの薪が燃え、海の幸やカモメの卵で美味しい料理が出来た。


7月14日、伊藤と小森はアライト富士を目指して出発した。持参したのは4日分の食料と燃料、テント、ザイル、ピッケルなどだ。海岸伝いに2時間ほど歩き、つぎに涸れ沢を山伝いに登る。標高300m あたりからゴロ石が露出、急勾配になってきた。500mからは雪の世界になった。2人は600mの小さなハンノキ林でビバークした。
翌日は快晴、足元は身動き出来ないほどの雲海、だが濃霧は500m以上には登ってこない。

画像1


ハンノキ林には太陽が一杯である。700mから草原になり、アライトヨモギ、チシマイチゲ、アライトヒナゲシ、シコタンソウなど、高山植物の花々が咲いている。北の果てに見るお花畠は実に美しい。
つぎに草原から砂礫地帯になる。植物は姿を消して急な雪の尾根に出た。雪は直射日光で腐って歩きにくい。本州の3月か4月ごろの状態である。
高度があがると雪が締まってきた。心配した悪場もなくザイルもアイゼンも不要だった。

頂上には午後1時20分に到着した。
気温は零度、まったくの粉雪だった。下りは登りに張ったテントで一泊、翌日は標高が下がるに従い濃霧の中に突入した。それから1ヶ月ほど島の漁師小屋に滞在、8月27日に採取した花を土産に島を退去した。 そのときすでにアライト富士の山頂は、新雪で覆われていたという。


私の父が勤務していた幌筵島や占守島、アライト島などの北千島はロシアが8月15日終戦後に突如上陸し不法に武力占領した。浅田次郎も小説「終わらざる夏」でこれを描いた。山岳会がカムチャッカ半島の山へ遠征したときも、はるかアライト富士が望見できた。現地ガイドもぜひあれに登れと勧めていた。

だが北方四島はロシアに返還を求めているが、北千島は日本に戻る気配はない。


参考文献 伊藤秀五郎「北の山」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?