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女性に髪を切らせたがる男性の心理


映画『ナラダージュ』を観た。

印象に残ったのは、深夜に酔った松潤が有村架純に「髪切ってよ」と頼むシーン。

てっきり濡れ場展開かと思ったら、めっちゃ普通に風呂場で散髪始めるし。

急に何???
このシーンの意味って何???
と思ったけど、逆にわかる自分もいた。

現実の私の身の回りにもいるいる!
!一人!!
やたら身の回りの女(美容師でも何でもない)に自分の髪を切らせたがる男〜!!

物語的には突拍子のないようなシーンでも、現実と一致したら一気にリアリティが増す。


【今日の議題】

(物語のメタファーとして)
女に髪切らせたがる男、マジ何なんだろうね???

連想して思い出したのは椎名誠さんの『風呂場の散髪』。

今まで父親に好き勝手風呂場で散髪されていた中学生の息子がある日急にお前に髪切られるのは嫌なんじゃー!と泣き叫び、父親とバトるという話。

あれって息子が父親の支配から逃れて自立していく第一歩のお話ですよね。

父親の任意のタイミングで父親の好きなように髪を刈られるというのは、父親による支配のメタファーなんでしょうね。

辮髪ってありますよね。



髪の毛を剃って中央だけ残して編んでるあれ。
あれの由来はそもそも支配者と被支配者を視覚的に区別するためのものだったらしいです。
辮髪を強いられたのは支配を受ける方。

あと、旧約聖書に登場するサムソンの力の秘訣がその長い髪で、髪を切ると途端に力が失われたという話もある。

つまり髪の毛って、抽象的な力(地位、権力、物理的な力…)の象徴と捉えられる。
このへんの話は荒俣宏さんの『髪の文化史』に詳しく書かれてて、うろ覚えだけど…。

また、精神科医の藤田博史は『人形愛の精神分析』で、髪の毛とはファルス(象徴としての男性器)の集合体であり、それを切るということは“去勢”であると説明している。

力や男性器の象徴である髪を奪う行為である散髪も、“去勢”のメタファーであると考えられる。

去勢…
動物の繁殖を防ぐなどの目的で、(雄の)生殖腺(せん)をとり去ること。比喩的に、気持の張りを失わせ、元気・勢いを奪ってしまうこと。

髪を切るという行為
=支配・去勢

まではまあいいけど、その屈辱的な去勢のメタファーである散髪を女性にしてもらいたがる男性の心理は、一体何を意味してるのか。

男には去勢(散髪)されたくない。
女には去勢(散髪)されたい。

はにゃ???

単にマゾヒズムで片付けても良いとは思うけど、私はそこにもっとキモくてグロテスクな意味があると思っている。
なんとなく。

それをどうにか言葉にして誰かと共有したい。

↑ここまでは他の人の後ろ盾(エビデンスという言葉を使うのがなんか嫌)もあるし直感的な根拠で断言できてるけど、

↓ここからは自分でも今ひとつ結論が出てなくてあやふやです。
誰か教えてくれ。
正解を。君の考えを。


私個人としては、女性に散髪をさせたがる男性の意味するものは、

「支配させるという支配」

だと思っている。

髪を切らせるってつまり、自分の方が被支配ポジションというか、ワンチャンのお腹出したときのポーズみたいな状態だと思う。

実際、髪切られてるときの人間ってポンチョ被ってシャンプーとかして髪ビシャビシャでめっちゃ無防備だし。
(美容室きっかけの恋、ほんとすげーなって思うもん。あのダサ・状態から恋が始まるのすごすぎるよ)

あと刃物持って後ろに立たれるわけだし、力関係として切られるの方より切る方が上なのは歴然。

そういう無防備な状態で女を後ろに立たせるってことは、そんなダサいところを見せてもその女は自分から離れていかないって気持ちの現れなんじゃないか。

その女に自分を受け入れてほしいっていう願望だったり、受け入れてくれるはずっていう奢りだったり、があるんじゃないか。

ナラダージュの松潤の散髪も、有村架純に自分の心の弱い部分を曝け出してしまったこと、それを受け入れてほしがっていることの暗喩なんじゃないか。

良く言うと信頼とも言えるかもしれないけど、そういう気持ちって一方的で、ある種の支配だと思う。

キモいね〜。最悪だ…。
(自分で解釈して自分で不愉快になってるの、自分の毒で死ぬかなしい生き物かい)

その試し行動的な女々しさが、まさしく去勢された状態ですねってやかましいわ(?)

同性同士とか、女性が男性の髪を切りたがるとかでも、また意味が変わってくると思います。

映画とか小説の中の散髪シーンに出くわすとき、こういうことを考えながら見ていくと楽しいなと思いました。

それでは〜。

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