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平成が終わったので、初めて書きます。

大学卒業時に、祖父の遺骨のあるお寺に祖母と向かった。八王子にひっそりあるお寺の住職は、実は芸能人をよく供養するような割とミーハーなお坊さんである。
誰もいない小さな仏間に、遺骨が二つ置いてあった、片方は知らない名前が書いてあった。
全てを納得して、崩れ落ちた、早かったと思う。
それは生きているはずの、いるはずの、父の遺骨だった。

1990年ごろ、バブル。大きな経済が弾ける瞬間、私は生まれた。私の出生地は港区赤坂。山王病院だ。
ちょどその頃、不動産開発業者でオートポリスオーナーの鶴巻智徳氏がピカソの絵画を落札した。
「ピエレットの婚礼」という、いまはもう表に出てこないと言われている絵画である。

私が生まれるその頃、約30年前の出来事である。

父は永田町にある「一條」という料亭にいた。(一条って書かれたり、一條だったりする)
母のように慕っていた「室谷秀」という女将の元で働いていたようだ。
当時父は53歳ほどであったが、どんな理由で、、どう出生地の北海道から東京へ出てきたのか、もう誰も知らない。
私の手元にあるのは、遺骨と、戸籍。どうやら北海道厚岸の出身らしい。

そんな料亭で、父と母は出会った。しばらくして私が生まれた。
当時、たくさんの政治的な話が料亭で交わされた。父はその料亭を愛していたが、室谷氏が亡くなって弱かった心が折れた、それが理由で、立て直そうとした経営にも失敗して、言いがかりみたいな借金を負って、自殺した。
誰も父がそんな借金をしたなどという証明もない、ただ1億、それを返せばいいと。
まぁ、借金はしてたんだと思う。なにせ鶴巻氏と同じく馬を愛していたんだもの。
鶴巻智徳氏は、唯一私の名前とともに父の遺書にあった。人が死ぬ前に書く文字って、手にするの、最初で最後な気がする。
母はその名を頼りに借金を返した。祖母が建てた1億ほどする豪邸は売られた。(鶴巻さんが1億で買ってくれたんだと思う)
父が私を抱いたのは一度きり。「鶴巻さんの買ったピカソを見せてやろう」。
ピカソの絵は私の目に映ること無く、封印された。
バブルはそんなものだった。
こじんまりとした葬式には、鶴巻さんの大きなお花に加えて宇野千代さんとか、神近義邦さんとか、ググれば出てくる人からのお花もきれいに飾ってあった。
今もご親族で生きておられる方々には、感謝しかありません。

鶴巻智徳氏は、大分にオートポリスを作った。
建築家の内藤廣氏設計のオートポリス・アート・ミュージアムには3日だけピカソなどの絵画が飾られたと、何かで読んだ。
http://www25.big.or.jp/~k_wat/autop/index.htm
素敵な建築だけれど、バブルの崩壊とともに役目を終えて壊されてしまったらしい。

今、まだ何も知らないに近しい状態で、ほとんどの人が死んでしまって、情報を集めるのはかなり難しいと思う。
浅草の橋場に住んでいる頃、3度ほど「ピエレットの婚礼」というイベントを開いた。
実験的お祭りのビジュアルは、現在グーグル画像検索では本物の「ピエレットの婚礼」と肩を並べている。
難しくても、今やっている芸術活動が、ピカソを見るはずだった私の人生と戦いながら、なんとか続いている。
この表に出ないであろう物語が、いつかだれかと縁を繋いで、ピカソの話を聞くことができたら嬉しいと思う。

平成が終わって、私は父のことが、少しだけ可哀想になった。


以上。
私には育ての父がおり、その人を父だと思っています。
母にも、祖母にも、自分の人生を楽しんでくれたら嬉しいと思っています。
この告白によって起こる不幸もありえますが、ご縁があって、芸術家の巨匠に背中を押されて書きました。育ての父がルイヴィトンの財布を私の名前入りで二十歳のお祝いにくれました。そのデザインをしたのが巨匠です。先日ご縁があって、お話しすることとなり、NOTEに書くことを決めました。
読んでいただきありがとうございます。
当時の一条を知っている方がいらっしゃったら、ぜひお話ししたいです。
ご連絡ください。父の賭けの負け金は残念ながら返せません。
info@linauchida.com

内田里奈
元は山本里奈と下地里奈


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