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「自己回帰」ということ


これまでのブログのなかで、私の直近の研究成果を「再帰回路と同期振動」という表現を使って紹介しましたが、再帰回路とは神経ネットワーク活動の自己回帰性の解剖学的な表現です。まずそこで「自己回帰」ということについて改めて説明したいと思います。

音楽や絵画(造形芸術)は、聴覚や視覚を介してひとに計り知れない大きな感動を惹起しうるが、特定の思想を表現するにはその精度や自由度においておおくを期待することはできないだろう。つまり、ひとによって対象の受け取り方やその程度がまちまちで、その具体的内容について他人と正確に共通の了解点を共有するすることはほとんど不可能であろう。より精確な情報を与えることでその了解内容に関して他人の賛同を喚起するためには、すなわち思想性をこめたより複雑な内容を含んだ自己主張と他者との共有は、言語や数式による表現形式を採用せざるをえないだろう。
 言語や数学的表現(数式や論理記号)による世界記述は確かに局所的に説得性があったし、それは現在もそうであり、これからも続くだろう。しかし・・・である。世界全体の構造や運動を説明するには、その限界や矛盾を露呈せざるをえないのではないか。

言語表現の限界と茶番の摘発は、古くはインド大乗仏教創始者龍樹の「空」思想の中核である戯論・プラパンチャ、近くはウィントゲシュタインその他による言語論にみられるとおり、古来繰り返し主張・指摘されている。言語による思想表現能力の限界の暴露によって、言語はほとんどその神通力を失ったはずなのに・・・、しかし、他に手段がないのである。記号論理学による世界記述は、その代替物としては荷が重すぎるだろう。
 これは数式世界でも同様である。ゲーデルの不完全性定理による数学公理大系の脆弱性による限界の告発は数学者の傲慢を打ち砕いた(かに見えた)。しかし・・・である。

それにも関わらず、告発者自身である龍樹を筆頭に、近代現代の哲学者、理論自然科学者は、実に雄弁に自己陶酔的にそして傲慢に職業言語や数式によって自信たっぷりに冗長に自己の世界観を語ってきたし、それは現在も根強く続いている。
 それは、言語や数学公理体系に本来的に備わる自己回帰性を原因とする大系の不完全性が招く論理破綻はごくまれにしか表面化しないことを、無意識にまたは意識的に利用した知的怠慢または傲慢だろう。しかしその矛盾が、重大な局面で突然おおきな姿で表面化する現実に直面する事態がしばしば出現するのを目撃するのである。たとえば、仏教唯識学派の存在論認識論大系(アビダルマ唯識学五位七十五法や五位百法)、現代物理学の素粒子標準モデル、などなど。
 主張者は、もっともっと自己批判的にそしてなによりも非専門家の存在を意識して謙虚であるべきだと提言したい。専門領域を同じくする同僚たち(ピア、peer)とのしばしば攻撃的な自己主張の応酬を回避して、自己省察的に脳内の再帰回路を最大限に作動して、専門職業用語や数式をふりかざして主張する自己撞着の愚と茶番の繰り返しに気づいてもっともっと謙虚になってほしいと思うのである。わたしは、伝統仏教を標榜する学僧たちのあいだで繰り広げられた底なしの論争の応酬のなかで、初期大乗仏教の名を残さない創始者たち(般若経群をはじめ初期大乗仏典の実作者たち)の態度の謙虚さをほんとうに尊くありがたく思うのである。
 この茶番は一般的に自己言及パラドクスとして知られている。いろいろな例が半分笑い話として挙げられているのでインターネットですぐに調べられます。しかし、このことは笑い話で済まされない重大な問題点や自然現象の本質をわれわれに語っているように思われます。
 つまり、自己再帰性とは、有形無形の再帰性回路にのっとって繰り広げられる周期的な精神または自然の往復運動である「振動」とセットになってはじめて、その特徴が表面化してたちあらわれてくる偶然的で確率的な、そしてなによりも創発的な人知を超越した自然現象なのである。
 自己回帰、自己参照、自己再帰、自己言及などいろいろ表現がありますが、その示す内容におおきな違いはないと思います。また、「反ー」、「批判ー」、「原理ー・(ー)原理主義」などの接頭辞・接尾辞をつける用語を最近よく目にしますが、同じ文脈で考えることができると思います。現状の行き詰まりや表面化した限界・矛盾に対する問題点を意識し、その原因を原点回帰を通して、明瞭化・客観化して改善を図ろうとするこれらの行動は、さまざま分野で古来繰り返しおこなわれてきた精神運動である。
反出生主義、反知性主義、反密教、・・・、批判哲学、批判仏教、宗教原理主義・・などなど。
 この自己回帰性にのっとって複数の往復運動である振動がまれに共振を起こす時がある。ここに「創発」が現象するのである。

そこで、
その1。
自己回帰性は、上記のように、体系(大系)が巨大化複雑化すればするほど本来的に孕む論理矛盾を露呈するばかりでなく(負の属性)、それとはまったく逆に予測不能な自然現象や社会現象のさまざまな創発現象の揺籃でもありうる(希望的発展性)。自己回帰性は、周期的往復運動が現出する創発現象たりうるなどの正負の初期条件となりうる。

その2。
初期大乗仏教般若経群で繰り返し説かれる廻向。ニーチェの永劫回帰。近代哲学における批判的考察(デカルト、ヒューム、カント)。それを踏まえた現代哲学の飛躍的諸展開(現象学や論理実証学)と限界。自然科学史上しばしばみられる自然観や解釈の行き詰まりと暫定的超越の繰り返しの諸例。自己回帰性は、思想哲学史の創発的発展(神秘主義的飛躍)の契機を説明する背景原因を提供しうるだろう。

その3。
自己回帰性は、脳機能の根源的現存条件であるばかりでなく、認識対象との同期やそれに基づく主体側の理解受容の基盤を提供していると思われる。動的な創発的振動現象とその共振(対象と認識主体間の)を科学的に分析解釈する方法論や解釈を提供する可能性がある。これがわたしの直接的な研究課題です。

その4。
そして、自己回帰性は、何よりも人類が犯した過去や現在の愚かで絶望的な歴史の繰り返しを再認識させ、反省させ、懺悔させて、そのうえで未来に対するかぎりない楽観的展望の糸口を提供してくれる可能性をもつ。

など、暫定的に項目化して、これらについて説明していきたいと思います。

さしあたって、不用意にあらわれたかにみえる”反時代的”な「創発的」、「創発科学」などと使われる「創発 emergence」ということばについて、説明していきたいと思います。


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