石津智大『神経美学』の要約とメモ


石津智大『神経美学』の要約と所感メモ
備忘と誰かの参考のために

[大要]


神経美学は2000年代になってから始まった新しい分野であるが、認知心理学に神経科学を取り込んだような形となっている。
英語圏で主に研究が進んでおり、研究者は心理学畑が多いという。

3つのジャンルに分類され、感性論が美の理論を包含していて芸術論は関連を持ちつつも別途議論されることになる。
本書の神経美学は全般に扱っているが美術との関連に寄せている。
Cognitive Neuroscience of Aestetics > Cognitive Neuroscience of Beauty
Cognitive Neuroscience of Art

研究は対象者へのインタビューとMRIによる神経発火状況の測定で観念と神経のマッピングする方法で行われる。

要点は、"美しいと感じる時に共通して機能しているのは「内側眼窩前頭皮質」である" ということ。
人の顔、絵画、音楽、数式、道徳的行為、これらに共通して内側眼窩前頭皮質が反応する。
同部位は脳内の前頭葉の底の辺りにある一連の報酬系の一部で、既存の神経科学の本では嗅覚の伝達で経路の一つとして挙げられている。 [1]
有名な視床下部のドーパミンやセロトニンの制御に関する報酬系は食欲などに関連しており、内側眼窩前頭皮質とは直接的な関係ではない。

共通して反応を見せるというだけで、実際には個別の事象において関連して視覚皮質、リズム近く、報酬系など異なる神経が反応し、
内側眼窩前頭皮質のみを取り出して美の神経的な本体であるとは言えない。
美的知覚はネットワークとして発火する。

[1] ベアーズ/コノーズ/パラディソ『神経科学』西村書店

[批評的な機能]


ラベル効果・文脈効果によっても内側眼窩前頭前皮質は反応する。
「これは有名な作家のものだから」「高いワインだから」といった情報(偽の場合であっても)で神経が反応する。
ラベル効果の抑制にはおでこ脇にある「背外側前頭前皮質」が働く場合に起きる。
専門的な人間については同部位が活動しており、外部的な情報を無視する傾向がある。(批評眼、審美眼)

同調バイアスは3項関係であると言われる。
自分、対象、ポジティブな情報(有名、高い、社会的ステータス)の3項で、対象への好悪が決定される場合がある。

別のバイアスで、直前の行為によっても見方が変わる場合がある。
絵の具で点描をしてからスーラの作品を見ると「より美しく」感じる実験結果があるという。
「動作の実行と動作の観察=ミラーニューロンシステム」との関連がありそうだと言われるが進んだ研究は無いとのこと。

[先天的な美]


運動パターンを美しいと感じることには第5次視覚野が内側眼窩新皮質と連動して活動し、これは個人差が少ない。
ドットの運動を美しいと感じるか、という観点で実験が行われた。文化背景に関係なく同じように感じるらしい。
アレクサンダー・カルダーのモビール作品は第5次視覚野的な進展を遂げた。
初期の原色の機械的な運動から、灰色の自然的・偶然的な運動へ変化していくが、第5次視覚野はまさにこのような挙動に強く反応する。
モンドリアンの縦横線の絵画は第1次視覚野的である。
この神経は縦と横に強く反応し、視覚の認知全体の基礎となる。
また、乳幼児は大人が美しいと思う顔立ちの人間に強く反応する。
このような美しさは人種・文化によって異なるが、乳幼児は各コンテクストで美しいとされる顔に反応するという。

[快と美の関係]


報酬系ではあるが異なる部位が働く。
美の共通部品である内側眼窩前頭皮質は欲求の回路である。
快(好き)については腹側線条体側坐核の「シェル」が機能し、異なる。
そもそも快と欲求にa prioriな関係はない。
ドーパミン漬けのネズミは砂糖水に突進するが、摂取しても快であると感じない(口の周りをペロペロしない)。
ドーパミンを作れなくしたネズミは砂糖水を見せても反応しないが、無理矢理飲ませると喜ぶ(口の周りをペロペロする)。
報酬系でドーパミンなどの脳内麻薬を分泌する機構があって初めて強化による快と欲求の関係が確立される。
関連して、物質が生物的・外的な報酬であるのに対し、社会的・内的な報酬はより高次の美であると言われるが、この辺りのロジックは曖昧である。

[崇高の問題]


崇高(sublime)は古典美学で恐怖・畏敬を含む、快・不快の混ざった感情であるとされる。
火山や広大な砂漠(壮大な風景)を見せた時に尾状核前部、被殻、海馬後部、小脳の一部が反応する。
尾状核前部は快の感情に、小脳の一部は憎悪・恐怖に反応する。
古典美学の推察と重なるとされる。
また、恐怖を前にして自己紹介させると帰属団体を意識したものになる:集産主義的
作品の悲哀を味わうには距離が必要で、観客としての距離が悲哀そのもののダメージを回避させている。
バッハの曲は第4の壁の向こう側にあるから美的な体験として享受される。
これらの恐怖・悲哀などのネガティブを含んだ場合でも内側眼窩前頭皮質は反応する。

[醜さについて]


人の顔の醜さは万国共通である。
美しい顔については国別で差異が見られるが、醜さについては差異はなく共通して「醜い」とされる。
恐怖を司る扁桃体が醜さの感情に結びつく部位である。
島皮質も関連しており、これは内側眼窩前頭皮質の活動とは相反的な関係にある。
カントにやメンデルスゾーンよると醜の感覚は、(経験上)美的なものに結びつけることはできない。
崇高の恐怖や悲哀と異なり、吐き気は現実のものとして現れ距離が取れないからであるとされる。

[総論]


「美が制度である」という現代美学の基本テーゼに対し、「美は脳内に存在する」という蓋然性がある。
神経美学は実験と測定を通して制度とその内面化を同時に明らかにする可能性がある。

[所感]


美の共通部品が必ずしも美の本体ではない、とされながらも考察の中で美の必要条件であると見做されているのが終始気になった。
フランシス・ベーコンと歪曲に触れながらも、醜さを持って美とみなす議論は一切ない。内側眼窩前頭皮質が動かないからと思われる。
同調バイアスの3項関係は重み付きPOXと同じで、多数決的な仕組みはニューラルネットワークに似ている。
顔の美しさの先天的な認知という話題は怪しげである。
どちらかといえば大人が乳幼児の認知を引きずって美醜を判定しており、文化的な勾配を作るにあたり「美しくない顔」を生成しているのではないか。
このほうがルッキズムの幼児的な様子ともマッチする。
好きと美しいが異なる神経であるという点、経験的に納得できる。
美にしても崇高にしても提示しているものや被験者の認知の曖昧さが多く残っており、十分に科学的であるとは本書からは読み取れない。
カタルシスについての説明はミケランジェロのピエタやバッハを引いて、それらしくページを割かれているが科学的な説明ではないと思われる。神経はどこに?
全般に実験方法がざっくりすぎ、条件も非常にあやふやである。
本書が一般向けに書かれているために省いたと考えるにしても、小規模な実験結果から誤った拡大解釈を行なっているようにしか思えない。
より詳細な実験データを載せない限り有益な書物とは言えないだろう。
また詩や小説といったテキストについての美、観念の美といった古典的な美学テーマが完全に省かれているのは気になる。
示唆的な情報もあるがやはり端緒的な分野であり、大きな結果を引き出すことはできないと感じた。
内側眼窩前頭皮質が重要であるとしたならば、さらに詳細にその意味づけを行うのが足固として適切であるように思われる。
ただの「やる気」スイッチであるかもしれず、実際は美とは関係ないかもしれないからだ。
いっそ、任意の対象を「美しく見る(美化)」方法を訓練で習得している人で、そのオンオフを前後で測定するのが一番良いのではないか。
神経美学という分野の紹介としてよく纏められているた思うが、タイトルからはより学問的な内容を期待してしまう。
実験を精緻化して必要な概念を導入した今後の研究・より専門的な成書が待たれる。


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