むしろ私たちが鏡

デイヴィッド・ホックニー展@東京都現代美術館,2023/07/23

デイヴィッド・ホックニーは異星の神である。
とはいえラヴクラフトの隠秘な悪神ではなく惑星ソラリスのように無邪気に地球の光景を再現する。
その絵画は、少なくともある時期において、思考の漂白が徹底しており批評的な意思の欠片だに見当たらない。
そこには多分科学さえない。木々は細胞分裂ではなく謎のホックニー力で伸長する。
根源は、しかし、天国の無垢や原初の静寂ではない。
目の前にあるものとしての自然が存在し続けることの喜び。
そこに現れた自然はもはや概念としての自然ですらないのかもしれない。
なぜなら私たちは描かれたスプリンクラーの散水や壁の色に自然を見出すのであるから。
いつまでも見続けることができるもの、単純にプラスである動力への信頼、そうしたものが自然という言葉を超えて体感される。
「自然は自然的に衰退することはない」とは埴谷雄高の『死霊』の一節だったと思うが、物理的な現象としては「自然」は衰退するものである。
系は最小作用の原理に従いつつも運動の乱雑さを大きくし、局所エネルギーは統計的に減少し続ける。
エントロピー増大の法則として宇宙の最後を大まかに頭で知りつつも、それでも「自然」は私たちを肥やし強化するように思われる。
3軒ほど隣の恒星が今はまだヘリウム核融合で毎日熱くなっているところに出くわしているためだろうか?
あるいは生物が、今存在し続けている経緯上、その根底に幸福への予感を埋め込まれているからだろうか?
どちらにせよ、「自然」はその全貌が明らかにならずとも、少なくとも人間の一生が衰退するより遥かに緩やかに滅びる。
時間のスケールの違いが無条件な多幸感を呼ぶのである。

デイヴィッド・ホックニーは1937年のイギリス、ブラッドフォードに生まれ、アメリカに少し行き、今はフランス、ノルマンディーで絵を描き続けている。
鮮やかでしかし軽い色調はエドワード・ホッパーの郊外の先を進んだアメリカの画家のようにも思える。
しかし絵の裏に日常の陰りや孤独は欠片も残されていない。本当に不思議なほど消されているため、最初からそのような雑事は世界に存在しないかのようだ。
空色のプール、木製の常緑樹の濃緑のブラインダー、中庭を囲繞するホテルの赤い気配。全て単純でしかもそれだけで完結している。

60年代〜70年代でひとつ完成があったように思う。私たちが名前を聞いてイメージするホックニーの単純な美はここにあるのではないだろうか。
ホックニーをみる喜びはそれで充分であるとも言えるが、しかしそれだけではない。
初期の試行錯誤や80年台の肖像画、21世紀のノルマンディー転居以降のiPadを使った眩しい木々を、私は今回の展覧会で初めて知った。
全長90メートルのデジタル展示された「ノルマンディーの12か月」は永遠のようで、見終わる頃には悲しみを感じるほど。
50個のキャンバスで構成される「春の到来 イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート」は驚きと疑問が尽きない奢侈の極み。
「はしごを使わない描き方」で作られており、壁一面の一つの風景だが同時にこの世への門であるかのように。
こんなに大きかったら、何というかもう、すごいではないか。
セザンヌのサン・ヴィクトワール山は完璧だが、ひょっとしたら絵を大きくしたらもっと凄いのでは?今までそんなことを考えたことが無かった。
「春の到来」を見る瞬間はただ絶句して呆けてしまう。
ひと昔前、ドイツの田舎のおじさんがこんなことを言っていた。「でかいものに驚き畏れるのが崇高の感情である」
確かにカテドラルは視覚へ載せた観念の無限軌道でオーバーリミットを行い、その開かれた数直線への感情は崇高というものかもしれない。
しかし今眼前に出現するのは無限の後退も前進もない一枚の扉、自然という完結した永遠性への僅かな敷居であり、崇高の感情は生起しない。
「絵画」の向こうに「自然」を見、さらに「自然」の向こうに私たち自身である括弧の取れた自然を見る。
むしろ私たちが「自然」の鏡であり、そのような思想は古風な響きがある。
「自然は人間を模倣する」のもその通りで、そこを入り口にして一周回って完成するのだとまとめれば良いだろうか。
写真だとそれほど面白い絵に見えないのでこれはぜひ実物を見ていただきたい。
同じことは他の絵にも言え、「両親」の絵の完全性は直で見ないとわからないと思われる。
かつて排除した経験的な世界に自分の生成元たる両親を置いた時どうなってしまうのか。
画家本人はこの作品が気に入らなかったようだが、驚くべき達成がある。
とはいえ私はそれを説明することができない。見た瞬間は全ての謎が解けた全能感があったが今は地上に落とされてしまった。
これも実際に体験していただくほか無い。
あとは併設の展覧会(コレクション展示室)の方での水についてのスケッチはホックニー展の本体(プール)の秘密が垣間見れる。
この人はどこからともなく別のルーツで絵を描き始めたのではなく、自覚的に新しい描き方を模索していたのだ。

観念の中の自然を超えて自然の中へ連れ出すこと、現実の観念を超えて今ここにあることの感情を生み出すこと。
画家は時代のアウラの中、しばしば作品で奇跡を起こしてきた。
ホックニー展は今生きている画家によるその秘術に触れられる最良の機会であることを断言しよう。

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