「前衛」写真の精神

「前衛」写真の精神:なんでもないものの変容
  〜瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄〜@千葉市美術館,2023/5/8

この展覧会における「前衛」写真は題している通りのかっこ付き、つまりある種含みのある「前衛」をピックアップしている。
語義に立ち入るまでもなく、「前衛」運動は日本で言えば戦前、1930年代から戦後にかけて海外の運動と共振する形で現れたある傾向である、という緩やかな共通認識がある。
とはいえその言葉の範囲は日本のシーンに限定してもなお幅がある。
この幅の中でさらに鮮明に「前衛」というあり方を理論的に示したのは瀧口修造とその実験工房であり、戦後の荒地からの芸術の開花を眩しく煌めかせる。
大辻清司は商業雑誌で活躍しつつも滝口と親交が深く実験工房に参加、阿部展也は名高い詩画集『妖精の距離』の挿絵を描いている。また、戦後生まれで夭折した鬼才牛腸茂雄は大辻のデザイン学校の生徒であったという。

千葉市美術館8Fの展示場に入ってすぐ、ウージェーヌ・アジェの19世紀末の記録写真が来場者を迎えてくれる。
アジェは俳優になろうとして挫折し、画家になろうとして挫折した。40を超えた挫折者は画家に写真を売る商売を始めた。
芸術写真ではなく、資料としての、記録としての写真。芸術的意図を含まない画面は静謐で白黒になってすでに存在しなくなったモノを、ただその形を保存している。
この後見る「前衛」写真は解釈と解釈の裏側の設計を行う。まるで逆の解釈の無いアジェの写真が牛腸のモノ自体への眼差しに共鳴するのは不思議な感動がある。

気に入った作品:「労働者の部屋」「大道芸人」

次に『妖精の距離』のいくつかの詩が阿部展也の絵とセットで並んでいる。
詩画集というのがそもそも稀な構築物であるし、展示物として眺めるのも珍しい機会であるように思う。版画連作のようであるが詩は連作ではなく独立している。
滝口修造の詩は一言で表せば虚無である。虚無であるとさえ見えない薄膜のような透明なポエジーに、美を匂わせる色が数滴垂らされただけの豊かな空虚。
それに対して阿部の絵は曲線で占められた海底生物の脂質のようなダリ風の生き物。一目で誰もが「シュールレアリスム」だと感じるだろう。

気に入った作品:魚の欲望、妖精の距離

流れで前衛写真協会と同時代の作家の数点ずつが展示されている。
永田一脩、濱谷浩、坂田稔、小石清、そして白眉は下郷羊雄の『メセム属』!!
レジェンダリな『メセム属』は現物ではなく写真集のムービーではあったが、何かわからない物体の素っ気ない恐怖と笑い、意地の悪さと無関心のさまざまな心象を確かに引き寄せる。
永田一脩の「火の山」はどう撮ったのか不思議なSF風の作品だ。マグリットの実写版といったところだろうか。
小石清の「叫喚」は人なのはわかるが細部がそうと分からない、これもまた謎めいたモノへの凝視を誘われる。

気に入った作品:永田「火の山」、小石「叫喚」、下郷『メセム属』


以上が「第1章」とされており、これだけでなかなかボリュームを感じた。作品数としてはそれほどではないが、個々の作品をしっかり見てしまう。
「第2章」には阿部展也演出の大辻清司共作作品、アーティスティックな写真が並び、さらにその後の大辻の遍歴が一望できる。

オブジェ付きの作品(女性の頭が後光あるいはサイバーな感じのメデューサになっている)は面白いが写真というよりは写真を使った表現芸術であると感じさせる(マン・レイ風?)。
そしてアジェの写真が作-品でさえなかったように写真は必ずしも表現芸術では無い、むしろ異化の眼差しを誘発するシステムが、少なくとも「前衛」写真にあったのであるとわかる。
その流れで大辻の「なんでもない写真」シリーズを追うと、記号による視線誘導のエクササイズが脱構築されているのだと感じる。
「前衛」は異化への強烈なプッシュである。なぜというと、感性の再創造が狙いの根底にあるからだ。
だから日常的なものを、構成された現実を、作品を通じて脱構築しようとする。
大辻の「陳列窓」の記号的な明晰化、「無言歌」に見られる形態と意味の接続など意識への働きかけを考慮する
日常には偶然的なストーリーが自然に付与されており、それを剥奪するのは作為でしかない。
しかしその作為自体が習慣化したらそれはもう「前衛」ではない。この日常への回帰を通じてこの時代の共通認識であった「前衛」の意味が明瞭になってくる。
「文房四宝」のシリーズを考慮すると「記録」への回帰というべきだろうか。
これは「構造」を経験した現代人が物語へ回帰するのと似ているが本質的なのは創造的な生の継続である。

気に入った作品:大辻「無言歌」「瀧口修造の書斎」「なりゆき構図」


第3章は牛腸茂雄。名前を知らずとも双子の写真は記憶にある人も多いのでは無いだろうか。
牛腸の日常写真にはある意味デモニーッシュなものがある。モノとしての人間、あるいはモノとしての実存、あるいはモノとしての生。
デザイン研究所時代の習作的な作品も並び興味深い。ここではテクスチュア、形態、空間が明確に提示されている。優秀な生徒だったのだろう。
半世紀前の「こども」の連作からいくつか、タイトルのない作品、「日々」のシリーズ。そして最も悪魔的な『幼年の「時間」』。
写真が現実を映す限り、常に写真は過去を映している。そこに写っているものは「もはや存在しない」瞬間である。
それを見るとき、人は時折、その写真という存在自体が頽廃的であると感じてしまうかもしれない。
「SELF AND OTHERS」「見慣れた街の中で」連作が展示されているが、前期・後期で真っ二つに分割されており、残念ながら一度に見ることができるのは半数である。

気に入った作品:幾つもあるが個々の題が無いため言えない


以上が展覧会の一通り。
実験工房の幾つかのMobilや絵画も併設で展示されていた。
時間が無く中の文字までは追えなかったが資料が豊富に展示されていた。
アサヒグラフ、フォトタイムスなどの歴戦の雑誌が並び、大体は瀧口修造のクリティクが開かれている。
単著では瀧口訳のブルトン『超現実主義と絵画』(1930)が感動的だ。

千葉市美術館は千葉駅から徒歩だと15分から20分程度の場所にあり、外観は多少麗しくあるものの普通のビルが丸ごと美術館になったかのような体。
5Fで北園克衛のプラスティックポエムを常設しているのがハイセンス・オブ・ハイセンスである。
GW連休最後の大雨の日だったので行きはタクシーを使ってしまったが、本来は都市部にしては広い通りを歩くのが時間を楽しむコツであると思われる。
近くの公園では晴天なら休日はイベントをやっていると識者(近くのバーのマスター)は語るが、
Google Mapで見ると「通町公園 遊具とトイレがある簡素な公園」と説明付きで表示され不思議な余白めいたものを感じる。
今回の催しはアヴァンギャルド・ジャポネに興味のある諸賢にはパワースポット的な輝きを持つことだろう。

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