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偏愛の1曲:ドビュッシー《六つの古代碑銘》

ドビュッシー:六つの古代碑銘
第1曲:夏の風の神、パンに祈るために
第2曲:無名の墓のために
第3曲:夜が幸いであるために
第4曲:クロタルを持つ舞姫のために
第5曲:エジプト女のために
第6曲:朝の雨に感謝するために
Hyperion, CDA68329
スティーヴン・オズボーン(ピアノ)
ポール・ルイス(ピアノ)
録音時期:2020年3月22,23日


French Duets
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 中学生の頃に冨田勲のアルバム《月の光》で初めてクロード・ドビュッシー(1862−1918)の音楽に触れて、フランスという国の文化に関心を持ち、フランス語を学び、それを生業にすることになって今に至っています。ですから、ドビュッシーの音楽にはひときわ思い入れがあります。特に中学から高校にかけて、FM放送のエアチェックで聞き知った曲や、少ないお小遣いで買ったLPに収録されていた曲のいくつかは、その後数え切れないほど聴き返しているので、楽譜も入らないくらいに身体に染みついています。ピアノ連弾のための曲集《六つの古代碑銘》は、そんな曲のひとつです。
 この曲集を初めて聴いたのは、オリジナルの連弾ではなくて、ジャン=フランソワ・パイヤールの編曲した弦楽合奏版によるパイヤール室内管弦楽団の演奏によって、でした。録音専用の合奏団として発足し、古楽を中心に活動したパイヤール室内管は、60年代の日本で人気を集めて、いくども来日公演を行いました。そんな彼らの、数少ない近代ものの定番レパートリーとして、この《古代碑銘》は日本での公演でも演奏されたはずです。この編曲を収めたディスクも彼らの数あるベストセラーのひとつで、その秀麗な響きを、私はFM放送のエアチェックで耳にしたのでした。
 詩人ピエール・ルイス(1870−1925)は1894年、古代ギリシャの女流詩人ビリチスの作品を翻訳したという体裁で散文詩集『ビリチスの歌』を刊行しました。じっさいにはルイスの完全な創作ですが、ビリチスの小伝を付したり、架空の参考文献リストを載せたりしたこの詩集を、本当にギリシャ語からの翻訳と受け取った人は多かったそうです。(こうした偽翻訳の伝統は、18世紀の詩人エヴァリスト・パルニーの散文詩集『マダガスカル島の歌』にさかのぼります。これらの偽翻訳がフランスの散文詩の歴史に与えた影響については、おそらくさまざまな研究がなされていることでしょう。)ドビュッシーは1897年にこの詩集にテクストを得て《三つのビリチスの歌》を作曲し、さらに1900年、詩の朗読とパントマイムを伴奏するために、フルート2、ハープ2とチェレスタという編成による音楽を書きました。後者は1901年2月7日にたった一度演奏された後、出版されずに終わりましたが、1914年に10曲余りあったその楽譜に素材を採り、ピアノ連弾曲集を書き上げました。これが《六つの古代碑銘》です。
 なぜ10年以上も以前の曲を突然サルヴェージする気になったのか。この頃のドビュッシーは体調不良もあって、極度のスランプに陥っていました。そこからの打開策として、それなりに分量のあった過去の草稿から新作を作ってみようと思ったのかもしれません。彼自身は管弦楽曲としての再生を構想していたようですが、最終的には連弾曲集と、そこから作成したピアノ独奏版の、2種の楽譜を完成させるにとどまりました。それでもこの曲集は揺れ動く和声と旋法、多彩な曲想によって聴き手を魅了します。古代ギリシャを舞台として一見アルカイックではあるし、響きの組み立てもドビュッシーとしてはシンプルだけれども、そこから滲み出る洗練された官能とでもいうべき雰囲気には、紛れようもないドビュッシーの個性が感じられます。特に浮沈の激しい舞曲である第4曲「クロタルを持つ舞姫のために」と、陰の濃く神秘的な第5曲「エジプト女のために」は私のお気に入りです。
 パイヤールの弦楽伴奏版に限らず、この曲にはエルネスト・アンセルメやルドルフ・エッシャーによる管弦楽編曲もあります。これはおそらく、ドビュッシー自身が管弦楽曲を目指していたことにちなんでいるのでしょう。またカール・レンスキはこの曲集をフルートとピアノという編成に編曲していますし、その他、私の手許にはクラリネット六重奏版やら、フルートとヴィオラ、2台のハープによる録音というのもあります。それぞれに楽しめるのですが、実は私は、アンセルメやエッシャーによる管弦楽版はそれほど好きではありません。《六つの古代碑銘》はあちこちに原曲のフルートやハープを思わせる楽句が散りばめられているけれども、けっして音数の多い曲ではないので、管弦楽ではどこか編成を持て余す感が否めないのです。(もっとも、最近Pristine Classicalで復刻された、アンセルメがNBC響と共演した1950年のライヴを聴くと、彼はスタティックなパノラマ的情景よりも、もっと強弱にメリハリのあるダイナミックな音楽を目指していたようで、その限りでは悪くないように思いました。)
 オリジナルの連弾版は、ピアノ連弾にとって重要なレパートリーですから、録音の数も夥しく、私が聴けてないものも多数あるのですけれども、近年のものではポール・ルイスとスティーヴン・オズボーンによるものがいちばん印象に残りました。多彩な音色を駆使して音楽の陰翳を丁寧に彫琢している上に、ひとつひとつのフレーズに繊細な神経が通っていて、聴き手の耳を惹きつけて止みません。
 さて、ピエール・ルイスの『ビリチスの歌』をめぐるドビュッシーの作品を集めたアルバムというのも過去にはいくつかありました。その嚆矢となったのは、おそらくフランス・アリオン・レーベルから出た『クロード・ドビュッシー、ピエール・ルイスの「ビリチスの歌」』と題された1976年のアルバム(ARN38350)でしょう。ピアノ/チェレスタのノエル・リーを中心に、ソプラノのダニエル・ガラン、フルートのミシェル・デボスト、カチ・シャタン、ハープのマルチーヌ・ジェリオ、ジョエル・ベルナールが参加して、歌曲集《三つのビリチスの歌》、ピアノ独奏版の《六つの古代碑銘》、そして現存する楽譜から復元された朗読とアンサンブルのための《ビリチスの歌》が収められています。朗読はドビュッシーの研究者でもあったアニク・ドヴリー。このドヴリーの朗読が秀逸で、《ビリチスの歌》の録音としてはいまだに記憶に残るものなんですけれども、いちどもCD化されたことがないらしい。不思議です。


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