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今日の1枚:コダーイ《ハーリ・ヤーノシュ》組曲ほか(ファレッタ指揮)

ゾルターン・コダーイ:
組曲『ハーリ・ヤーノシュ』
夏の夕べ
交響曲 ハ長調
Naxos, 8574556
ジョアン・ファレッタ指揮バッファロー・フィルハーモニー管弦楽団
チェスター・エングランダー(ツィンバロン)
録音:2022年5月12日、2022年11月14日

 ゾルターン・コダーイ(1882-1967)といいますと、ひと昔、いやふた昔ほど前はほとんど管弦楽のための《ハーリ・ヤーノシュ》組曲のみで知られていた存在で、そのほかには往年の名手ヤーノシュ・シュタルケルが名プロデューサー、ピーター・バルトークのもとで録音した無伴奏チェロ・ソナタ作品8が「松ヤニの飛ぶ音が聞こえる」という名コピーで話題になりはしたものの、どちらかといえば珍曲扱いで好事家の間で知られていた程度だったように思います。それが時を経て21世紀になると、チェリストたちの必須レパートリーのひとつとして無伴奏ソナタが定着し、またラヴェルの《ヴァイオリンとチェロのソナタ》に着想を与えた《ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲》作品7も演奏・録音機会が飛躍的に増えてきた一方で、いつのまにか《ハーリ・ヤーノシュ》組曲は録音を見かけるのも稀な作品となってしまいました。ハンガリーの民俗的な素材を活かしたジングシュピール(歌芝居:歌と歌の間を台詞劇がつなぐ歌劇)《ハーリ・ヤーノシュ》から管弦楽曲を抜粋して編まれた組曲は、ユニゾン主体で厚みに欠ける和声や管弦楽法、およびそのコミカルな題材から、まるで「お子様向け」音楽であるかのように貶められることが多いように感じます。確かに音楽としての力強さや創意という点で無伴奏チェロ・ソナタや二重奏曲が屈指の名作であることは疑いようがありませんが、《ハーリ・ヤーノシュ》組曲のような軽みのある音楽も、広く聴かれ、愛されるに値するのではないかと思います。その音楽は、例えば盟友であったベラ・バルトークと比べると民俗的な薫りに寄りかかりすぎ、音楽としての組み立てが甘いと評価されがちですが、民俗的な素材を活かすためにサウンド構成をシンプルにして西欧音楽的な要素を希釈するという姿勢には、20世紀末以降のワールド・ミュージックを先取りするところがある、と言ったら褒めすぎでしょうか。
 ジョアン・ファレッタはバッファロー・フィルの音楽監督を務めて、2024年で四半世紀となります。合衆国の名門オーケストラでの初の女性音楽監督であったばかりか、その座を長く務め、かつ旺盛に録音活動を行う彼女は、もはや合衆国を代表する指揮者と言っても過言ではないでしょう。機動性と中高域の充実したサウンド作りが、いかにもアメリカの中堅オーケストラらしいこのコンビですけれども、ファレッタはスペクタキュラーな音楽を振ってもけっして大向こう受けを狙わず、標題的な音楽でもストーリー・テリングにこだわって品を落とすことなく、常に丁寧で洗練された音楽を繰り広げて、私のお気に入りアーティストのひとりです。
 そのファレッタとバッファロー・フィルによるコダーイ録音はこれが2枚目。《管弦楽のための協奏曲》と《「孔雀」変奏曲》、《ガランタ舞曲》《マロシュセク舞曲》を入れた1枚目に対し、こちらは《ハーリ・ヤーノシュ》組曲と最初期の《夏の夕べ》、そして晩年に完成された交響曲ハ長調の3曲を収めていて、これでコダーイの代表的な管弦楽作品を網羅したことになります。
 第1曲目の《ハーリ・ヤーノシュ》組曲は、まさにファレッタの美点をよく活かした演奏になりました。民俗的な節回しに拘泥せず、引きずるようなルバートを慎んで音楽を快適に進めると同時に、旋律には清潔な歌い口を乗せていく。かといって音楽を無味乾燥なものにはせず、例えば第3曲「歌」冒頭のヴィオラ独奏に聴かれるようなファンタジーにも事欠かない。なによりサウンドの組み立てが見事で、先述の通りユニゾンの多い音の積み重ねをよく整理して多様な色彩を引き出すのみならず、トゥッティはよくブレンドしていて上品さすら漂う。有名な「間奏曲」あたりではもっと弾けた、それこそ多少品を落としても派手な演出があってよかったのではないか、と思わないでもないですが、ダイナミクスの出し入れが巧みで、そのよく彫琢された設計にはぐうの音も出ません。全体に引き締まった歩みを一貫させつつ、高揚させる場面では的確に音楽を導いて、いわば大人の音楽としてこの組曲を描ききったと言えるかもしれません。
 2曲目の《夏の夕べ》は、まるで同時代(1920年代)の英国音楽かと見紛う、優しくカラフルな音楽です。こういう音楽を丁寧に掘り下げて、詩情と気品とを盛り込むというのは、ファレッタの得意とするところでしょう。冒頭のコール・アングレをはじめ、管楽器陣も淡い色彩を振りまいて、聴き手を楽しませます。
 3曲目に置かれた交響曲は、コダーイが30年代から書きためていた素材をもとに1961年に完成させた作品で、80歳に手が届くかという時期の作品だけに、管弦楽書法もいたってシンプルで、民俗的な味わいが楽しい反面、音響としてはさすがに響きの薄さを感じさせる場面も多いものです。この曲はフェレンツ・フリッチャイがその晩年に録音したことでも有名ですが、そのフリッチャイ盤と比べると、あちらが第1楽章に12分以上をかけたのに対し、ファレッタ盤は10分を切るくらいというのがまず目につきます。実際聴き比べてみると、体感ではテンポは倍くらい違う感じ。隅々まで歌いまくるフリッチャイに対し、ファレッタは淡々とした歩みでサクサク音楽を進めていきます。でも、ここでのファレッタの節回しには自在な伸びやかさが横溢しています。速めのテンポで間を詰めつつ進めながらも、旋律が縮こまることがないあたりにこの人の魔法があるように思います。その上で、サウンドは《ハーリ・ヤーノシュ》同様、角を立てず、それでいて音の対比を甘くせず、細部の見通しもよく、落ち着いた情趣をたたえるものに仕上がっています。そして、何よりの聴きものは第2楽章。やはり速めのテンポをとるのですが、緩徐楽章にもかかわらず、また伴奏が必ずしも密にビートを効かせる訳でもないのに、ここでは生気あふれる拍節感が歌を支配していて、音楽が活き活きと、気持ちよく前に進んでいく。軽やかに生を謳歌する終楽章もいいですけれど、この第2楽章の活きのよさ、若やいだ抒情は、ちょっと忘れられません。

(本文2506字)


Kodaly, Hary Janos, Falletta


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