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今日の1枚:ラフマニノフ《徹夜祷》(パトラム・インスティテュート男声合唱団)

ラフマニノフ:徹夜祷 Op.37(シーハン、ラザレフ、グレチャニノフ編、男声合唱版)
Chandos, CHSA5349
エカテリーナ・アントネンコ指揮パトラム・インスティテュート男声合唱団
イーゴリ・モロゾフ(テノール)
エフゲニー・カチュロフスキー(バリトン)
アレクシス・V・ルキアノフ(オクタヴィスト)
録音時期:2022年6月23-25日


Rachmaninoff Vigil
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 恥ずかしながら、ピアニストとして、あるいはピアノのための作品の作曲家としてセルゲイ・ラフマニノフを知ったのは、20歳を大きく過ぎてからのことでした。しかし、私のレコード棚にはちゃんとラフマニノフのアルバムがあった。アレクサンドル・スヴェシニコフ指揮ソビエト国立アカデミーロシア合唱団による《晩祷》(近年の邦訳題は《徹夜祷》)の2枚組です。このアルバムは、録音時代は50年末か60年代くらいの非常に古いものなんですけれども、70年代にスヴェシニコフたちの来日に合わせて国内盤LPがメロディアから出たのでした。白地に大きく漢字で「晩祷」と記されたそのジャケットは、メロディアとは思えぬほどセンスがあって、非常に印象的でした。このアルバムは一部がシングル・カットされてリリースもされたはずで、こんにちではちょっと考えられませんけれども、そのくらいクラシック音楽(というか合唱音楽)のディスクというのは需要があったのでしょう。私が手に入れたのは80年代前半のことで、正直言って当時は合唱音楽にも、またロシア音楽にもそれほど関心があった訳ではないのですが、たぶん中古レコード屋で手頃な値段で出ていたのを、ジャケットの記憶があまりに鮮烈だったので、つい買ってしまったのでしょう。(アルバムの帯にあった「ラフマニノフの最高傑作」という惹句にも惹かれたのだと思います。そもそもラフマニノフの作品をほとんど知らなかったくせに!)
 ロシア正教の教会音楽というのは、器楽一切なし、かつポリフォニーよりもホモフォニー中心で、中世から近代に至る西欧のキリスト教の音楽とはずいぶんと性格が違います。そのホモフォニックな動き、旋律というよりも、音の塊がひとつになってグングンと迫ってくるような力強さ、そして何より、最低声部を受け持つバスの、深々としつつも鋭く聴き手の胸に刺さる強烈な響きは、西欧の教会音楽ではけっして出会うことのできないものです。このアルバムで初めてそうした音楽に触れた私は、宗教的感情がどうこうという以前に、そうした響きの迫力に魅せられてしまいました。
 ラフマニノフは信仰深い人物という訳ではなかったようですが、もともとロシア正教の音楽を自らの着想の源泉として愛し、研究を続けていました。彼は1910年に《聖金口イオアン聖体礼儀(聖ヨハネス・クリソストムスの典礼)》を作曲しており、1915年の《徹夜祷》は無伴奏混声合唱による正教音楽として、彼自身2作目ということになります。ここでの彼は古いロシアの聖歌が用いていた旋法を採用し、近代的な和声法を基礎に置きつつ、そこから外れた音遣いもまじえて、正教音楽の正統に連なる作品としてこの曲を書き上げました。宗教を抑圧していたソヴィエト時代には、前述のスヴェシニコフ盤があったくらいでなかなか演奏・録音の機会に恵まれませんでしたけれども、80年代以降、ロシア内外で録音が相次ぎ、現在ではかなりの数の録音が世に出ています。
 さて、ラフマニノフの《徹夜祷》は初演時には少年合唱と男声合唱によって歌われました。もともとロシア正教の聖歌は女声を交えずに歌われるのが本来なので当たり前の話ですが、長大さや作品の難しさもあって、現在は女声を含む混声合唱で採り上げるのが一般的です。しかし以前よりこの作品を男声合唱のみで歌うという試みは存在していたようで、そのための編曲がひとつならず残されています。例えばラフマニノフの同時代人であったアレクサンドル・グレチャニノフには第7曲「六つの詩篇」の男声合唱版があり、現存はしませんが他の曲の編曲もしていたかもしれません。指揮者のエカテリーナ・アントネンコはそうした編曲楽譜を収集し、移調や手直しを行った際に原曲の和声やテクスチャーはどのように保ちうるのかを研究した上で、ディミトリ・ラザレフとベネディクト・シーハンというふたりの作曲家にグレチャニノフによる第7曲以外の編曲を委ねました。当盤はその上で成立した、初めての男声のみによるラフマニノフの《徹夜祷》の録音です。
 このアルバムを聴いてまず耳につくのは、やはり男声のみを用いたための響きの同質性です。中低域の深みのある音色が、そのまま上声部まで伸びていったような自然さがあります。そして特筆せねばならないのは、オクタヴィストの活躍でしょう。通常のバス声部より1オクターヴ下を歌う男性歌手をオクタヴィストと呼び、これはロシアの歌ものではその独特の響きの深みを作るために必須の存在といっていい。ヒリヤード・アンサンブルでの活動によって一世を風靡した指揮者ポール・ヒリアーはこの作品をエストニアで録音するにあたって、ことさらにオクタヴィストを1名合唱に追加して響きを作りました。当盤ではソロを除いて50名という編成中、実に8人がオクタヴィストという極端な編成をとっています。もちろん、だからといって極端に低音を誇張しているということはなくて、例えば有名な第5曲末尾のバスのロングトーンなど、むしろいくらか控えめに鳴らしているんだけれども、そうした弱音でも人数をかけた安定感がある。オクタヴィストの迫力ということでは、聖歌の前に先導の歌唱を置く際の、その先導をオクタヴィストが担っていて、第11曲冒頭など、ちょっと信じられないような響きが聴かれるのですが、ラフマニノフの手になる音楽の部分はそうしたデモンストレーションで荒らすことなく、きちんとしたまとまりのあるサウンドを作り上げている点に好感が持てます。それでも、オクタヴィストたちがぐっとギアを踏むときの重厚さと迫力には、ちょっと忘れ難いものがある。聴き応えのあるアルバムでした。

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