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【小説】もうひとりの転校生 第7話

   第7話

 濡れてべたべたとまとわりつくシャワーカーテンを開け、バスルームを出た。味気ないビジネスホテルの狭い部屋から、やけにキレイな夜景が見える。一人で見るのがもったいない。

 下半身にタオルを巻き付けたまま、ベッドの上に放り出してあったコンビニ袋を広げた。真新しい下着を取り出す。さっきシャワーを浴びる前に買いにいってきた。

 同期の用意していた下着を履く気にはなれなかった。洗濯してあっても、他人の使用済みの下着には抵抗がある。たとえこれが同期の身体であっても。

 履いてみると少し緩かった。つい自分のサイズで買ってしまった。あいつ、引き締まった身体してるな、くそ。

 素材もいつもと違うのか、なんだかゴワゴワする。自分で下着を買うなんて、結婚して以来だ。

 パジャマは借りることにした。きれいに畳まれたそれを広げる。荷物は小分けになってバッグの中にきちんと収納されており、几帳面さが窺えた。

 冷蔵庫から缶ビールを取り出し、テレビをつけた。時計は九時半を差している。

 音量を下げ、スマホを取り出した。自分の名前を探し、発信する。

『よう、お疲れ』
 同期の呑気な声に、俺はむっとして黙り込んだ。くそ。いいよな、こいつは。

『そっち、どうだった』
 同期が心配そうに言う。俺は気を取り直すと、

「とりあえず今日は終わったよ。明日の準備は万全。会場も無事にセッティングしたし、公共団体と得意先にも挨拶した」

 二度もあった瀬能はるか騒動については言わないことにした。

『サンキュ、明日の本番もよろしくな』
「ああ」と答えてから、俺はふと声を落とした。

「それより考えたんだけどさ、お前そういえば『転校生』って言ってたよな」

 ずっとバタバタしていて、じっくり考えてみる余裕もなかったのだが、さっきシャワーを浴びながら、ようやくこの現象について思いを巡らせた。

『転校生』の映画はじっくり観たことがない。そもそも世代じゃないし、邦画には興味がない。それでも、内容くらいは知っていた。

『転校生』は、明るくてクラスの人気者の少年と、都会から転校してきた少女が共に石段を転げ落ち、心と身体が入れ替わってしまうというストーリーだ。原作は『おれがあいつであいつがおれで』という小説で、それを大林宣彦が監督した。

 昔の映画だし、地上波やそれ以外で何度も放送されている。その時にいくつかの場面を目にした。

「もしあれと同じなら、元に戻るためには、同じ場所で同じ衝撃を与えればよかったんじゃないか」


 同期は一瞬黙り込んだ後、

『ああ……そうか』

 と間の抜けた返事をした。俺は頭を抱え込み、ベッドに座り込んだ。

 なぜもっと早く気づかなかったんだ。そうすれば、こんな苦労をしなくて済んだのに。

「くそ。なんであの時思いつかなかったんだ」
 俺は悔しさに奥歯を噛みしめたが、

『お互いテンパってたからな』
 同期がまるで他人事のように言う。俺はスマホの画面を睨みつけた。

 まるで緊張感がない。まさかとは思うが……。

「お前、知っててわざと俺を名古屋に……」

 いつも冷静な同期らしくない。ひょっとしたら、こうやって身体が入れ替わったのも、すべてこいつの思惑だとしたら……。

『そんなわけないだろ』
 同期の低い声で我に返った。

 そうだよな。こんなこと、狙ってできるようなことじゃない。それに、この例えようもない嫌悪感や違和感を、自ら招こうとするとは思えない。

 今だって、俺は風呂でこの身体を触るのも嫌だった。目を逸らしながら急いで済ませた。身体だけじゃない、鏡を見るのも気持ち悪い。

 触れるのも嫌で、身体を洗うのはすべてボディスポンジを使った。もし映画のように相手が異性だったとしても、きっと同じだと思う。

「明日のイベントを終えたら、明後日の早朝に急いで帰る。そしたら元に戻ろう」

 あと一日半の辛抱だと、自分に言い聞かせる。

『わかった』
 同期も強く同意した。そのまま切ろうかと迷ったが、

「お前、くれぐれもうちの妻に手ぇ出すなよ」
 最後に一言付け足した。

 この電話は同期につながっている。そしてそのすぐそばには妻が。考えただけで、無性に声が聞きたくなってきた。電話を代わってくれと言いたい気持ちを必死に飲み込んでいると、

『出さないって。金詰まれても勃たねぇよ』
 と言われ、かちんときた。

 なんだと、こいつ。結婚して十キロ太った俺と違って、妻はちゃんとスタイルを維持してる。そりゃ、子供二人も生んだんだから、腰周りなんかはちょっとふくよかになったけど、俺は嫌いじゃない。

 授乳を終えて、張りを失った代わりに柔らかさが増した胸も好きだ。

 言い返したい気持ちをぐっと堪えた。興味を持たれたら困る。腹立ちまぎれに電話をぶつんと切った。

 ビールの残りをあおったが、ちっとも美味しいとは思えなかった。うるさいだけのテレビを消す。

 ベッドに横になった。思いのほか、身体が深く沈んでいく。疲れていて当然だ。

 眠気が訪れる直前に、空腹を感じた。食事会では、そういえばあまり食べられなかった。今からなにか買いに行くのも面倒で、無理に目を閉じた。

 ずいぶん長いこと家から離れているような気がする。今朝は当たり前のように我が家で過ごしていた。こんなことになるなんて想像すらしていなかった。呑気に新聞を抱えてトイレでクソなどしていた自分が恨めしい。

 ちくしょう、今日は会社なんか休めばよかったんだ。

 俺は空腹を抱えながら、布団の中で寝返りをうった。

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