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第5話 キッチンの明かりだけを灯した薄暗いリビングに、コーヒーメーカーの音が響く。窓の外は暗く、雨がしとしとと降り続けている。 眠れなかった。本を読もうとしても、映画を観ようとしても、なにも頭に入ってこない。 どうせかき消すことができないならと、コーヒーカップを手に、窓ガラスに貼りついた水滴を眺めていた。 「ありがとう。ホントに助かっちゃった」 そんな声が頭によみがえる。後部座席のシートで、さくらは僕に向かって両手を合わせた。 「電車の中でこの子が寝ちゃ
第7話 チャイムを押し、一歩下がって待った。耳を澄ませていると、ドアの向こうでかすかに近づいてくる足音がする。魚眼レンズからこちらの様子を窺っている気配がしたが、ドアは開かない。 もう一度チャイムを押す。二度、三度。ドアから漏れ出てくる音が、ますます僕を苛立たせた。冷静になろうと努める一方で、こそこそ逃げまわる相手を許せない気持ちが沸き起こる。 ドアを叩いた。しかし応答はない。もう一度叩こうと振りかぶったところで、開錠の音がした。 「なによ、透。どうしたの
第8話 短いメッセージがさくらから届いたのは、夜半のことだった。 返信しようと、何度も文字を入力しかけては消す。どんな言葉も、相応しいとは思えない。 もう一度彼女のメッセージを読み返した。 『こんなに反省している武を見るのは初めてで、驚いています。まだ複雑な気持ちだけど、操のためにも家族としてやり直さないとね。如月くんには迷惑をかけてしまって、本当に申し訳ないです』 友としての親しみが込められている。けれどもそれはすなわち、僕と彼女との間に横たわるはっき
第11話 マンションのエントランスで、僕はポケットからハガキを取り出した。部屋番号を確認してからボタンを押す。 「はーい」 その声が、三十年という長い時間を一瞬で溶かした。僕が名乗ると、「どうぞ」という声と共にオートロックが開く。 エレベーターの中で、僕は背面の鏡に映る自分の姿に目をやった。 生え際にぽつぽつと白いものが混じる。特にサイドのあたりは多く、固まりになっていた。 輪郭がたるんでいるのがわかる。目頭から伸びる皺は頬を斜めに縦断しているし、心な