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第3話 武から連絡があったのは春の初め。花冷えの頃だった。 「どうせヒマだろ? 今夜呑もうぜ」 いつくかの〆切を抱え、ここ一週間はまとまった睡眠も取れずにいた。やっとパズルのピースがすべて揃い、なんとかして組み立てたそれを暗記するほど読み返し、推敲を重ねて、やっと担当に送ったところだった。 「どうせヒマ」という言い方はいささか腑に落ちなかったが、空っぽの冷蔵庫の前で空腹を抱えていたところだったので即座にOKした。 待ち合わせよりもかなり早めに家を出る。日は
第4話 「ああ、降ってきましたね」 担当の飯田氏の声に、僕は手元の書類から顔を上げた。窓ガラスにぽつりぽつりと雨粒が打ち付けられている。 出版社を訪ねていた。来年に刊行予定の本の装丁について、打ち合わせをするためだ。 「如月さん、傘は持っていますか」 飯田氏が尋ねた。首を振る。雨は夜半からという予報だったし、家を出た時もそんな気配はなかった。地下鉄の駅を降りて地上に出た時に空が暗く陰っていたので驚いた。 「よかったらお持ちください」 僕の返事を待たず、飯
第5話 キッチンの明かりだけを灯した薄暗いリビングに、コーヒーメーカーの音が響く。窓の外は暗く、雨がしとしとと降り続けている。 眠れなかった。本を読もうとしても、映画を観ようとしても、なにも頭に入ってこない。 どうせかき消すことができないならと、コーヒーカップを手に、窓ガラスに貼りついた水滴を眺めていた。 「ありがとう。ホントに助かっちゃった」 そんな声が頭によみがえる。後部座席のシートで、さくらは僕に向かって両手を合わせた。 「電車の中でこの子が寝ちゃ
第6話 浮遊する言葉の尾を追いかけていた。聞こえない音に耳を澄ませるように意識を凝らすと、かけっぱなしで忘れていたBGMが、まるで小さな羽虫のように僕の耳の周りでぶんぶん飛び回り始めた。慌ててリモコンをつかみ、スピーカーをオフにする。 姿を捉えかけていたはずの言葉は再び遠くまで飛び去ってしまった。僕はもう一度、さっき辿った道順を思い出しながら、同じようにアプローチする。 片方の手で顔を半分覆った。集中したい時はいつもこうする。目を瞑ってしまうと、眼裏に小さな
第7話 チャイムを押し、一歩下がって待った。耳を澄ませていると、ドアの向こうでかすかに近づいてくる足音がする。魚眼レンズからこちらの様子を窺っている気配がしたが、ドアは開かない。 もう一度チャイムを押す。二度、三度。ドアから漏れ出てくる音が、ますます僕を苛立たせた。冷静になろうと努める一方で、こそこそ逃げまわる相手を許せない気持ちが沸き起こる。 ドアを叩いた。しかし応答はない。もう一度叩こうと振りかぶったところで、開錠の音がした。 「なによ、透。どうしたの
第8話 短いメッセージがさくらから届いたのは、夜半のことだった。 返信しようと、何度も文字を入力しかけては消す。どんな言葉も、相応しいとは思えない。 もう一度彼女のメッセージを読み返した。 『こんなに反省している武を見るのは初めてで、驚いています。まだ複雑な気持ちだけど、操のためにも家族としてやり直さないとね。如月くんには迷惑をかけてしまって、本当に申し訳ないです』 友としての親しみが込められている。けれどもそれはすなわち、僕と彼女との間に横たわるはっき
第11話 マンションのエントランスで、僕はポケットからハガキを取り出した。部屋番号を確認してからボタンを押す。 「はーい」 その声が、三十年という長い時間を一瞬で溶かした。僕が名乗ると、「どうぞ」という声と共にオートロックが開く。 エレベーターの中で、僕は背面の鏡に映る自分の姿に目をやった。 生え際にぽつぽつと白いものが混じる。特にサイドのあたりは多く、固まりになっていた。 輪郭がたるんでいるのがわかる。目頭から伸びる皺は頬を斜めに縦断しているし、心な