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カテゴライズは、いつも自分でなく周りがすること

今日は。


今回は私がその事象に対しては気をつけながら共存している

「カテゴライズされること」

について書きます。


これを書くと周りから見えてる私とギャップがあると思いますが、私視点ではこのように捉えているよ という話。




私は元々あるコミュニティに入っていくことがとても苦手。
けれども人と話すのは大好きだ。



大きな括りで集められた飲み会や交流会よりも、興味がある人とサシでご飯行ったり興味を持ってもらって誘われたら行くくらいがとても気楽で、
そんな気質から大体交流会の類に出向くと結構身構えてしまう自分がいる。


そういう意味では学校とかもそうで、
たまたま集められた何十人かと共に過ごさなければならない苦痛って、今考えたらとんでもなかったなぁと

(ちなみに大学の同期は心から尊敬できる人たちばっかり。大学に入った1番の財産とも思ってる。

作家続けてる人も博士課程行った人も就職した人も色々だけど、皆大学入学時の時からそのままデカくなったような人たちばかりでフシギダネがフシギバナになったような感じの、愛すべき頑固者の集まりなのです)


まぁ言ってしまえば、思考回路が柔軟でない私からすると

カテゴライズされると言う事は、


下手したら自分自身が「不自由」を感じてしまいかねない、便利だけれども付き合い方を気をつけなければならない事象だと言うことだ。





作家として生きていると、色んなカテゴライズをされて、メディアにのっていく。


そこでそれこそ柔軟に捉えていたいのは、


メディアに乗っていくこと自体は、彫刻という重たい媒体を扱う以上、とても重要

ということ。


作品の根幹に大切にしまい込んだ理念や哲学と共鳴できる心の持ち主と、出会う確率を格段に増やすことができるからだ。


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少し話がそれるが、これは私のおすすめしたい考え方として

活動開始もしくはそれより早いうちから

●名刺を持つこと
●作家名義のSNSもしくはHPを持つこと

は、表から見たら自己顕示欲から来るものとして鼻につかれるかもしれないが

むしろ作品に対して謙虚な姿勢であるとすら思っている。


黙って制作していても、(それがどんなに頑張って作ったとしても、素敵な作品だとしても)

対人のいる世界に作品を置きにいかないと

自分のうみだした作品

この世のどこかにいる作品を見たい、あるいは欲しいと求めている人


は、

出会うことすらできない

からだ。

どんなに頑張って自己発信、プロデュースしても
作品を見てくれない人は見てくれない。どの様な作品を見たいかは相手の自由だ。
けれども、そう言った自己発信の活動によって、自分の作品に何かを響かせて近寄って下さる人が、1人でも増えるかもしれない。

それは、このなんでも目まぐるしいスピードで新陳代謝が行われる現代において、とっても大切なことだ。なぜなら

彫刻 は スピード感がない分野だから

である。

これらの事は、逆に言えば

この大きな世界に

佐野藍のこの作品を傍らに置きたい


と思ってくださる方1人と出会えれば、それを一つずつつなげて活動を継続することが出来る。

その出会いの確率は、一緒に仕事してくださる方々の力とある程度自分の頑張りで増やすことが出来る可能性がある 

と言うことだ。


彫刻家は、例えばスポーツ選手の様に簡単にスポンサーがつく様な職業ではないし
(それこそ使ってる3MとかBOSCHとかマキタとかとスポンサー契約とかできたら素敵だなぁとか思ったりする。)


自分が活動や制作を黙々とすると同時に存在を世の中に提示する術が中々確立しない。
そんな中でSNSなどの道具がある時代に生まれて救われている部分が多々ある。
現に数々の素敵なお客さんとの出会いや共に仕事をする方々との出会いがあった。


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話を戻して、そう言った過程で活動していくにあたり出てくる事象として

なんらかのカテゴリーにカテゴライズされていく

という経験が出てくる。

例えばこんなことを言っている自分ですらも、自己紹介するとき、SNSでのプロフィール、開業届を出す際の職業欄や、何かメディアに載る際の肩書は、名乗る必要を感じる。

それは初めての出会いの際に、わかりやすく紹介できたほうが間口が広がるからである。

それと同じく、私の作品を紹介する側としてもある程度のカテゴライズをするのが効果的なのだ。

例えば私の例で言うと、誌面掲載の

◯◯作家特集←丸の中には色んな言葉が入ります

とか、

出展した展示でいえば


驚異の超絶技巧展


などの言葉も、カテゴライズの一つである。

実際に大きな恩恵も受け、ちっぽけな私の存在、彫刻に対して沢山の方々との出会いをもたらしてくださった。

しかし、その恩恵を受けたままでいるわけにはいかない。私の様な極端な性格の持ち主は、今度は気をつけないとそのカテゴライズ自体に息苦しさを感じてしまうのである。

私は誰かから何かを求められたり期待されることが辛く感じてしまうと言う性質がある。
気をつけないと、行動原理が尊敬している人の期待からくるものなのか、大衆から望まれる何かから来るものなのか、自分自身がしたくてしているものなのかが分からなくなり苛まれる。

なので、

行動原理は常に自分主体でないと、極端な話作品が作れない。

(大学3年まで本当に作品が作れなくなった)その辺りがだいぶ潔癖ではある。

結局それは、自己と他人の精神的な境界線をうまく設けられないとこに原因があり、しっかりしたパーソナルスペースを線引きしないと自分の責任を保てなくなるので結果、制作中は1人でないと無理 とか共同アトリエに入りたくても入れないと言う気難しさが露呈されてしまう。(※HSP)


もちろん他社から求められたハードルを乗り越える経験というのもすごく大切で、(所詮自分で儲けたハードルというのは自分の範疇からしか設けられないから※私の場合)


一つかけがえのない経験を例に挙げると、

山下裕二先生との出会いで出展に至った超絶技巧展ではとにかくこれ以上ないくらい手を入れたものを制作して欲しい。と言うご依頼の元、私なりに持てる全てをそのご依頼内容にあてた。同時に私の作品の全てに共通する

「自分なりの 彫刻 を展示に出す」

と言うことも大切に制作した。
ニーズに対して応えることが私にとって高いハードルかつ出展に至って大切な条件だが、あくまで自分の根元を抜きに作品は作れないからだ。

結果として素材と造形による生命感を捉えてくださるお客さんも沢山いらっしゃったし、逆に鱗すごい!と面白がってくださる方も沢山で、心から感謝している展覧会の一つだ。(まず初対面での楽しみ方はなんだっていいと思っている)

しかし、その後しばらくは、


超絶技巧


と言う言葉がその展覧会以外の場面にも自分にくっついてくることに、なんとなく心苦しさを感じてしまっていた。


心が柔軟な人はうまく乗りこなせると思うけれど、私は多分このままだと言葉に縛られてしまう

と危機感を覚えた。


私は技術を突き詰めていくこと自体にプライオリティを持つタイプの作家では明らかにないからだ。(これは超絶技巧展チームに入って改めて露呈された事であり、自分の作家としての主軸がそこではないと言うこと)
↑これを安易に工芸disと捉えられたら本意でないです。

そして、自らを振りにかかったのが2018年の花影抄での個展

獣神達の昼さがり

である。

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とにかく自分なりに、塑像や油絵を描くイメージで取ったりつけたりの延長線で作品の完成を持っていった作品群の個展だった。
個人的には超絶技巧の真裏の作品群を置いておきたかった。
(結構自分の行動原理を守る事はうまくいった。あくまで自分自身の問題なのだ)
この一連の流れは私に取ってとても大切なものとなった。

自身の活動を広げる行為、載っかるメディアは、気をつけないと自分の本質を伝えることを返って邪魔してしまう と言う危険性も孕んでいるということです。

具体例を出しながらつらつらと話してしまったが、不自由を少しでも感じてしまったら何も作れなくなりそうな気分になるなんて、本当に面倒な性格をしているなぁなんて自分でも思います。

カテゴライズされることによる恩恵も受けつつ、
自分は自分であることを望んでいる。
難しい事だとは思います。でもそれも自分次第かなぁと。。

これからも、うだうだ悩みながら
のたって居たいと思います。

(ベースがあまりに時代錯誤ではあるけれど、この話を書いていて自分は「従来までの女性像」であることを期待されている状況も苦しい、不自由だと思っているのだと改めて感じた。この問題に関しては相手が大きすぎるので、瞬発的な力では逃れられない。これからの課題です)




最後に、これもデリケートな話だけれども、


結構これらの事には個人的に苦労していて

卒業制作も修了制作も主席だった私は


周囲から沢山のバッシングを受けてきました。


自分の目線では


切実に向き合って生まれた作品

ただの1生徒佐野藍 

でしかないのに


与えられた瞬間


主席を取った人、作品


にカテゴライズされ

言われなくても済む様なことを沢山言われてきました。


主席卒業のやつはしょうもない
とか
作品はつまらない
とか


エリート

とか笑

SNSでもたまに見ます。


与えられたものは、何を言われても仕方ない、サンドバッグになるくらい安いだろ と言わんばかりに。

別にどう思おうが勝手だけれども

それが如何に不自由な物の見方、考え方か

と言う事は私の目線からはいつも思います。


私はこれからも自由でいたいし、そうある努力と工夫をしていきます。

誰のためでもなく

結局全ては自分の作家としての命の為なのです。

私は 

彫刻家佐野藍 

でも

石彫家佐野藍

でも

アーティスト佐野藍

でもなく、

女佐野藍

でもなく(相変わらずクドイ笑)


佐野藍

で居たくて


(だから先に他者側から対価を頂く制度や事柄に対して極端に怖くなってしまうんだよなぁ。不器用でどんどん不自由になる気がするから)


そんな佐野藍はあらゆるカテゴライズの波に乗ったり乗らなかったりしながら
 

そうある事で、創造の泉を自分で守っています。


そんな私でも、居場所のあるこれからでありたいと思いお話ししました。


これからの時代、こんな奴の居場所も1枠、設けさせてくれたらな、と願います。そしてそんな場所を、広げていく努力をします。


何者かであるかは、いつも周りが決める事


私は私、あなたはあなたの自由と幸せの為へのささやかな主張、体験談でした。


佐野藍

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