かわいいの闘争……劇団人間嫌い「かわいいチャージ'19」【2】

2 ここあ
2-1 実証主義的かわいい論
「インフルエンサー(みたいなもの)」として、kawaii chargeのオーナー・エリカとメイド喫茶外でも仕事をしているここあのかわいい観は、戯曲全体でみると終盤にさしかかったあたりでようやく論争的なかたちで開示される。姉のために傘を届けに来た妹・鈴奈がメイド一同に何やかやとその場へ留めおかれて、二人きりとなったところで、無言も気まずいから、話す。

スイーツがかわいいとか、アイシャドウがかわいいとか、あんまりピンとこないんだよねぇ。やっぱり、食べ物は見た[目]より、味とバランスだし、アイシャドウって、茶色だよ?

 彼女は上の引用の直前でも自ら表明しているように、らぶのようなかわいい信仰を持っているわけではない。冒頭でアイシャドウ他の化粧品を「かわいい」「かわいい」と愛でていたのとちょうど対照的に、いちいちの個物に属するかわいさを真っ向から否定して、「バランス」をとる。1-2で若干指摘したが、これがここあの「かわいい」観のひとつの主要な特徴である。かわいいとは信仰の対象ではなく、ときに冷徹なほどの計算をつうじて練り上げられる有機的構造物であり、「他人の容姿を云々論じるのは初等教育で習うように禁止されている事柄である」と主張する鈴奈に対しても、「容姿の美醜を完全に度外視するというのはせいぜい理想論であって人間にはできない、勉学に励むのと同程度にはかわいい追求は人生の選択肢としてよい」と反駁する。カロリーから功利まで彼女の計算の対象は幅広く、人生のありさまについても、やはり計算の弾き出しではある。
 かわいくなることの詳細な方法論についてここあはよく語っている。というかここあはかわいくなることのある種機械的有機的な、詳細な方法論についてよく語る傾向という役を担わされている。論争的に開示された終盤部を先に引用したが、ここあの「かわいい」追求の具体的な方法論がみえるのはむしろ戯曲全体の前半部によっている。一日目の勤務が終わってみるくと雑談している場面、中盤鈴奈がやってくる直前のらぶとの会話である。クリニックやサロンでの施術をつうじた髪質や肌の状態の外部からの調整、パーソナルカラーの○○ベ、骨格のウェーブその他の類型的分類の観念をここあは駆使する。
 たとえば、彼女の診断によれば、らぶのパーソナルカラー……個々人にとって似合う色を判定するための観念……はイエベのスプリングで、この分類には「イエローがかった、明度の高い色が得意」である。ここあ自身の骨格……似合う服の形を判定するための観念……は「ウェーブ」、レースなど透け感のある素材が似合うということである。透明感があり、軽く見える素材で上半身を覆っているためだろうか、制服を着るとき下半身が重たくなりがちで、そのためここあはXラインを強調することで、重くみえることで下に寄った視線を放射状(“X”)に分散させ、これを相殺する。
 個々のかわいさではなく、バランスが重要視されるとはじめに述べた。ここで視線を分散させる、重くなりがちなところで視線を分散させるというのは、肉体と衣服の全体におけるもっともよい均衡を保ち、それによって「かわいい」を実現しようとする立場である、ということができる。そこにおいては、らぶのような信仰は存在しない。あるのは神の配剤ではない。配剤するのは人間である。人間にはそれぞれ美醜にかんする諸条件があらかじめ設定されているが、肉体も、衣服も、あとから自由に変更することができる。そしてあくまでも物理的な諸条件を調整することによって、一つの調和=「かわいい」を実現することが、程度の差こそあれ、誰にでも可能であると主張する。
 物理的なものの自由な操作によって目的を実現しようとする立場、これは、現在では一般にオーギュスト・コントに帰される実証主義、すなわち観念論に対する「自然科学」の絶対的優位をみとめ、もっぱら自然科学による知すなわち恣意的観念のいっさいを排した知のみを正当とする立場に、近いといえるものである。厳密にいえばコントの主張したpositivismeは必ずしも上のようなものではなく、彼を現在言われる「実証主義」の祖にまつりあげたのはジャン・ルフラン『十九世紀フランス哲学』によればエミール・リトレ(1801-1881)である。しかしここではあえてコントに敬意を表して、ここあに代表される立場を《実証主義的かわいい論》と名付けることにする。
 調和というピュタゴラス派にまで遡行できる由緒正しい形而上的観念に依拠するとはいえ、エリカやここあの目はまっすぐに実在する諸対象に向けられている。エリカなら「おしゃれ」ここあなら「かわいい」という一種の調和を求めてはいる。しかし調和はまさに諸対象の構成によってのみ実現されるのである。らぶならピンクの「らぶカラー」を装備すればOKとでもいうだろうか、しかしエリカやここあの場合はそうはいかない。それだから、この場合、エリカの立場も《実証主義的かわいい論》に組み入れることができるかもしれない。ただしエリカの場合は「かわいい」とは積極的にはいわない。それは演劇「かわいいチャージ’19」の舞台であるメイド喫茶において、年長であり、メイドのようにかわいいにコミットしていないからではある。彼女のまとうものは一種の美ではあるが、積極的に「かわいい」とは、少なくともメイドたちの前では言われがたい。