かわいいの闘争……劇団人間嫌い『かわいいチャージ '19』【3】

3 みるく

(予定ではkawaii chargeのメイド・みるくの考察にはいる前に、性的搾取ないし性的消費という観念について扱うはずであった。しかし今こうして取り扱っているのは演劇『かわいいチャージ ’19』であって、半ば学的、半ば「運動的」な性的搾取の概念は問題ではない。問題であるにしても、ここにおいてはせいぜい二次的な価値しか持たない。概念分析は別のふさわしい場を必要とするだろう。そういうことだから以下ではあくまで戯曲中の記述を追っていくことにする。)

3-1 「かわいい」を売ること……商品化
 キャストの顔見せが終わり中盤にさしかかったころ、彼氏を振って泣きじゃくるらぶにみるくが送る慰めの言葉において、「かわいい」を売り物にすることがはじめて、問題としておぼろげにでも提起される。メイド喫茶は「女の子」や「かわいい」を売り物にしている、たいていの男はいい顔をしないだろう……と。ここではあくまでも,独占欲の問題、男女の二者関係における問題として、「かわいい」の商品化の問題性が提起されている。
 その直後には結婚関係にある女verheiratete Frauの美の問題も提起される。らぶは「結婚したらもうモテなくてもいい」、身体的な「かわいさ」を追求する必要はなく、むしろかわいくなることで「モテ」を追求することはすなわち不倫願望のあらわれである、少なくともそうではないか、と考えている。対するみるくは結婚したとたんに醜くなるのは詐欺であると言い、人が好かれるのは見た目まで含んだ全体においてであるから、「かわいく」あり続けることは重要であるとする。「結局、見た目がよくないとなにも始まらない…ってことですか?」「んー…まあ、そういうことなんじゃない?」「えーーつらい!」これは逼迫した叫びではない、らぶは現にかわいいを謳歌しており、自らがかわいくないというのは接続法2式の出来事以上のものではない。疎外された人間の苦しみが描かれるのはもう少し先になる。
 話をらぶの「かわいい」論議に戻せば、いわばここでは、結婚相手の男性が「かわいい」の「買い手」であり、結婚する女性は「かわいい」の「売り手」であるということができるのではないか。
 そして「買い手」に「買われた」からには、買われた「かわいい」をほかの男性に売りさばく「不倫」は褒められたものではない、なぜならその「かわいい」は、その基体である女性(の身体)と共に、すでに男性の所有するものだからだ……そんな風に論じることも不可能ではないように思われる。
 ただこれは「思われる」にとどまりそうでもある。明確に「売り物にしている」という言葉は登場するものの、らぶが不倫を厭う理由が戯曲中では明確には打ち出されていない。なおかつ「かわいい」について様々の考えの提示される本戯曲において「かわいい」を「所有」するのが「男性」であるという議論は、少なくともこの戯曲中の議論の範囲内で正当化できそうにもない。鈴奈が苦しむのもひとえに自らのかわいさ(あるいはその不在)によってである。もし男性が「かわいい」を「所有」するということができるとしても、それはまさにその男性自身が「かわいい」状態にあることを指しているのである。「かわいい」人間は、まさに自らの身にその「かわいい」を所有することによって「かわいい」人間になるのである。「かわいい」他人を「所有」するマスキュリニティとそれに対する論難はここでは全く問題になってはいない。「性的搾取」という、さしあたり男女の相互関係を前提とする観念をあまり強調して論じることは、少なくとも『かわいいチャージ ’19』には不相応であるように思われる。
 やや議論が錯綜しているかもしれない。話を女性が「かわいい」を「売る」ことに戻そう。みるくもなだめる文脈で言っているように、メイド喫茶とはさしあたりかわいい女性が自らの「かわいい」を売って金にする商売である。そこでは「女の子」も売り物にされる。若くてかわいい女性が、日本のメイド喫茶では好まれるということになる。そして、「女の子」(若くあること)や「かわいい」を売り物にすることは、男には好まれるものではない。ここには色々議論のしどころがある。しかしこの戯曲の記述にもっぱらのっとって進みたい。
 そうした問題性の意識が徹底的に剥き出しになるのが戯曲最終盤、メイド喫茶で働いていることを秘密にしていたみるくが、その事実を彼氏に知られてしまった場面でのことである。そこで起こる糾弾は、一昔前なら起こりえなかったろう形をしているように思われる。その糾弾の形式は新しい、そして新しいからこそいっそう錯綜した問題を持ち合わせた形式である。

3-2 彼女を糾弾できるのは誰か
 みるくによれば、まーくんこと彼氏はメイド喫茶を性風俗と同じようなものとしてとらえている。しかし、彼はみるくを売女と罵るわけではない。貞淑を尊び、純潔を要請し、性を抑圧するのではない。彼は言う、「女を消費してるってことに問題がある、プライドはないのか」。
 プライドと横文字で表現される言葉には、少なくともさしあたり「誇り」と訳出することができる(口語による演劇であるから、一般的な感覚を優先して読解したい)。一個の主体、一個の人格としての自立性への信頼とよみとくことのできるこうした感情を持つかぎりにおいて、人間は自らの属性をむやみに売り物にせず、「消費」させることもない、それは「誇り」を傷つけることだからだ……そういう理解が彼の中にありそうした理解に基づいて、交際関係にある女性をいわば糾弾している。
 糾弾といえるだろうか。むしろ、彼自身の視点からすれば、みるくは自ら彼女自身の誇りを打ち捨てているように見え、道を違えた恋人を正しい道へ連れ戻そうとしているのではないのか。
「そんな安っぽい女だと思わなかった」と電話口で言われたとみるくは語っている。彼氏がみるくを論難しているのは、自己への配慮を欠いている(と、少なくとも彼氏はみなしているところの)行動をみるくが続けていたことのためにであり、なおかつそれは貞淑や純潔といった社会規範としての徳目ではなく、もっぱらみるく個人の主体性をみるく自身が毀損していたということのためにである。罵りの言葉ではないと上に書いたのはそういうわけだ。無論貞淑を重んじる近代の観念も、人格の誇りを尊ぶ彼氏の持つ観念も、共に何らかの正しさを志向したものではある。異なるのは、前者が全面的に自由を抑圧するかたちで女性の人格に作用するのに対して、個々の人格の誇りを語る後者は基本的には抑圧からの解放を志向するという点である。
 みるくはといえば、一般的な観念として「メイド喫茶で働くことに男はいい顔をしない」と把握しており、また彼氏自身そのようにメイド喫茶のような産業を嫌っていることを知ってはいた。彼氏に嫌われたくなければメイド喫茶で働くのを辞めていればよかったのである。他方で彼女はメイド喫茶も愛してもいる。かわいいものの中で生きることをこよなく愛している。踏み迷っている間にこうなってしまった。
 こうなってしまったことに対してみるくを非難するのは彼氏だけではない、まじめ一本の鈴奈もまたみるくを面前で厳しく糾弾する。こちらの論調は彼氏のものとはかなり異なる。自分の価値を若さ、女性性、かわいさに見出すことを、鈴奈はみるく以外に対しても批判して、メイド喫茶というものじたい毛嫌いしている。ここでもみるくを、ほとんど罵るように責めて、曰く「ちょっとかわいいからって、楽して生きようとか思ってんでしょ」と。鈴奈のこれは、直後にらぶが指摘するような「八つ当たり」的性格を有しているのみならず、彼女のルサンチマンは別項で取り扱うようにいささか憎悪に満ちているところもある。戯曲中でも、演出の面でも、彼女のルサンチマンは相当に子供じみた姿勢として描かれているのではないか。少なくとも鈴奈自身が相当幼稚な人格として描かれているとみること、これを弁護する必要はそれほどないだろう、その程度にははっきり見て取れるはずだ。
 だから我々が問題にするべきは彼氏の言う誇りの尊重という観念のほうで、ここで起きているのは、ほんらい抑圧からの解放を志向するはずの観念がかえって抑圧として作用しているという事態である。
 ここでは詳細な概念分析は行わない。第二波フェミニズム以来の暴力的ポルノ批判の文脈における性的消費概念とそれに対する非難、ひいてはカントの道徳理論にさかのぼるマーサ・ヌスバウムのobjectification概念の日本における受容と批判を扱うには然るべき別の場を設けなければならない、ここではあくまで演劇の記述に沿って進む……問いを立てる;「プライドはないのか」、彼氏はこう言っているけれど、それを言われたメイド連はどう反応しているだろう?
 答えは既に書いてしまっている。みるく自身が、性風俗とメイド喫茶の明確な区別を(彼女なりの言葉で)彼氏に対して懇切丁寧に説明していれば違ったかもしれない。しかしそうはいってもほとんど一方的に振られたみるくに対してメイドたちはみな同情的であり、なにかと吠えがちな鈴奈(彼女は一々声を荒げがちで、よほど幼く見せようとしているのか、単に偶然偏ってしまったのか)とは対蹠的である。これはらぶの弁護に明確にあらわれているようにみえる。
 ほんらい、「消費」に対する非難は、「消費」される女性とその女性性があたかも人間ではないかのように扱われて、「消費」それ自体によって女性が傷つけられ抑圧されるという事態への非難であった、はずである。消費を敵視するあまりかえって女性を抑圧してしまうとするならば、そうした言説は当初の目的を見失っているといえる。「人間の自由のために戦う」(『仮面ライダー』)というわけだ。売りたければ売っていい、得ること自体を道徳的に非難しようとすれば、セックスワーカーや(最近の呼称によれば)セクシー女優といったその道の労働者の尊厳に対する非難が成立してしまう。こうした職業の現場における暴力は、また別の問題である。
「かわいい」を、「女の子」を売ること、これに対する反発は、過剰な禁欲主義(……禁欲主義的理想……)と、ある意味で近い位置を占めているようにもみえる。動機は異なっていても、挙動が近似する。不思議なことに。不思議なことであるのか、あるいは必然なのかもしれないが、それはここで分析することではない。少なくとも、objectificationに「すばらしいwonderful」領域を設けたヌスバウムの洞察にここではひとまず寄り添っておくのが穏当であるように思われる。肉体を(時には自らの肉体をも!)売買可能な・人格を持たない単純な物として取り扱うことは、ときとして「すばらしい」ものでありうるという。ひとまずこれをとる。もちろんこれも専門的な分析を必要とするはずだが、それはここで行うべき事柄ではない。