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「親の価値観に縛られてるよね」について、考えてみたこと

先週、打ち合わせのために、営業前の小杉湯にお邪魔しました。
まずはじめに目に入ったのは、昼の太陽がまぶしい道で、黙々と、時に言葉を交わしながら外の掃除をしている人たち。
中に入ると、浴室はピッカピカに拭き上げられていて、お湯を焚く熱で裏の部屋はどんどんあたたまっていきます。
お客さんが絶えない夜の小杉湯も活気に満ちていたけれど、営業前の清々しい活気とお客さんを迎えるワクワク感もすてきでした。小杉湯が気持ちよくて心地よい場所である理由をまたひとつ、見つけてしまった気持ちです。

じつは、この日の打ち合わせが、対談メンバーがはじめて全員集合した日でした。
幡野さんと、大西神父と、菅原さんと。
打ち合わせという名目でしたが、3人揃って話しはじめたら、もう対談。
今回の打ち合わせも、あっという間の時間でした。

いろんな話題があったけれど、この一週間、わたしのなかに留まり続けていたのはこれ。

「親の価値観に縛られるよね」

3人が強く頷いていたこの言葉について、考えてみました。

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「わたし」っているのだろうか?

「親の価値観に縛られるよね」
この言葉に共感できるということは、自分のなかに入りこんでいる「親の価値観」に気づいているということ。つまり、「自分の価値観」と「親の価値観」とが区別できている。わたしはきっと、その区別をしている最中なのだと思います。

いつからか、「常識」や「ふつう」という言葉に違和感を覚えるようになりました。違和感というより、なんだかわからない、考えれば考えるほど、遠ざかっていくような気がするのです。

わたしが「親の価値観」を意識するのは、自分が「常識」だと思っていることが、相手にとっては「常識」ではなかった!という場面に遭遇したときです。わたしが当たり前に思っていたことが、家を一歩出た世界では通用しなかった。これって絶対じゃなかったのか!と価値観の多様性に気づく瞬間です。こんなことは至極当然のことですが、気づくまでは「常識」と信じて疑わない、盲目な自分がいることには驚きました。

ひとは誰でも、ひとつの「常識」も「価値観」も持たずに、この世に生まれてきます。そして、家族や身近なひととの間のルールを自分の常識にしていきます。こども特有の、強くて素直な吸収力を発揮して。

小学校、中学校、とコミュニティーが広がっていくと、少しずつ、いろんな常識や価値観があることを知っていきます。例えば、ゲーム機を買ってもらえる子と、買ってもらえないわたし、とか。うちの朝ごはんはパンだけど、あの子のうちは納豆ごはんなんだって、とか。でもどうしたって、子どもの頃の出会いには限界があります。出会いの場所を選んでいるのも、たいていは親だから。
そう考えると、わたしの常識、わたしの価値観って、あるのだろうか、という気持ちになってきます。わたしが選んだと思っていても、さかのぼれば家族や先生や出会ったひとに由来する。自分の外から取り込んだものばかりで、わたしができあがっているのです。

わたしって、ほんとうにいるんだろうか??

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ほどいて、いい。

こんなふうに頭のなかで考えて、わたしっているの?と迷走していても、実際、わたしはいる。そうしてたどり着いたのは、周囲の影響は受けざるを得ないということ。そして、受けた影響は消せないということ。つまり「育ててもらったわたし」であることは変えられない事実なのだと思いました。

でも、いつまでも、育ててもらう立場ではいられない。自分の足で歩くために、自分の価値観がほしい。
とはいえ、いままで当たり前に思っていたことに、急に背を向けるのは難しいもの。わたしが遠ざかろうとしたって、あっちから引っ張って引き戻そうとしてくるかもしれないし。良くも悪くもしみしみに染み込んだものをどうやって見直して、どうやって選びなおすのか。

今まで生きてきたコミュニティーのなかにいるままでは、客観的に見直すことはできない。そんなとき道標になるのが、いろんなひとに出会うことなのではないかな、と小杉湯での打ち合わせの様子を思いうかべながら考えています。打ち合わせの席にいたひとは全員、わたしにとって一歩先を歩くひとたち。新しい出会いに足を踏み入れてみると、いままで知らなかった常識とか価値観とかに出会うことができます。そうやって新しい風に吹かれてみて、自分がすきなもの、自分が落ち着くところを見つけたらいいのかな、と。

いろんな価値観があることを知ること。そこに優劣がないことに気づくこと。そして、自分で選んでいい、選びなおすものなんだ、と思えること。

この気づきは、わたしがわたしを生きていこうとするとき、気持ちのよい追い風になってくれる気がします。

あ。老若男女いろんなひとが集える銭湯は、やっぱりいい出会いの場です。お風呂に入らないひとって、いないし。普段の生活では出会わない、いろんなひとに出会えそう。

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親の価値観に縛られていると気づけたら、そのロープは自分でほどける。
複雑にもつれているかもしれないけれど、ひとつひとつの結び目をといていけば、かならず。
ほどいていいし、もちろん、また結んだっていい。


一週間、こんなことを考えていたら、中高の同級生でリラックマがすきだった男の子を思い出しました。リラックマって、どちらかといえば女の子に流行ったキャラクターだし、女の子の間でも流行っていたのは小学生の頃だった気がします。でも彼は、そんな流行とか、「ふつう」は女の子のキャラクターだなんてことはお構いなしに、リラックマのペンケースとか下敷きとか、いろんなグッズをもっていました。
中高生男子がリラックマ?なんでそんなにグッズもってるの?恥ずかしくないの??
当時のわたしは、上から目線でからかうように眺めていたのでしょう。でもほんとうはすこし、羨ましかったのだろうと思います。自分の好きを貫き、それを堂々と表明している彼が。

ふつうとか、常識とか、価値観とか。結局わたしを縛っているのは、わたしなのかもしれない。


リラックマの本の担当者さんは、スーツを着たやさしいおじさまだったよ。

10代のわたしに、そう教えてあげたい。

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