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自分の人生に執着してみる

1人でも出来ることと、誰かと一緒にできることって一緒です。
自分ができること、なんかこう、こんなんしたい、でも1人じゃ無理かな・・・こんなんしたい、と思ってんねんけど手伝ってくれへん?とかって。
私は本当に食べることすらも手伝ってもらわないとできない状況にあって、手伝っていただくっていうことに慣れたわけではないんですよ、決してね。
自分は自分でできることをちょっとづつ増やしていこうと思って、ちょっとづついろんな方に協力してもらったり、アイデアグッズみたいなんを利用してご飯食べれるようにちょっとづつなったりとかしてきてるんですけど、それって自分ひとりじゃ知らなかったこともあるし、あ、こんな便利なグッズがあるの?とか、あ、こうやってやるとスプーンってうまく持てるのとか、そうやって人のアイデアとかを、あとは手作り、看護師さんに手作りのスプーンの柄のところを作ってもらって、私が一番持ちやすいように作ってもらって、食べれるようになったんですけど、そういうのを日々体験していくと、ほんとに自分がこんなんやってみたいけどできひんかもしれんなって思っていることって自分の頭の中だけで置いとくのはもったいないって思ったんですよね。

こんなんやってみたいねんけど、なんかもっといい方法ない?とかなんかできる方法ない?とか、こんなん得意な人知らん?とか、誰かに言ってみるっていうことは決して悪いことではないし、こんなん言ったら笑われるんちゃうかとか、こんなんいったら迷惑かもしれへんっていうのは、相手の問題なんで、ほっといたらいいんですよ(笑)。ほっといたらってちょっと暴言やけど、自分はこういうのをやってみたいんだよねって言うと、あ、じゃ、それ私やるよって、手伝うよとか、面白そうねとか、こういう風にしたらもっと面白いかもよとか、こういう風にしたらもっと楽しいかもよとか、自分の力だけじゃ着想できひんかったところにたどり着いたり、自分が思っている以上のものができたりする。

自分がやりたいことやけど、自分ではちょっと難しそうやから、人にやってもらうとかっていうのってなんやろ、それはねぇ甘えとはちょっと違うんじゃなかろうかっていうところに今落ち着いているんですけど、皆さんどう思われますかね?

後はその、前の施設にいた時の体験もすごいあるんですけど、なんかすいませんって奥ゆかしいようで、なんか逃げのような気がしています。
前の施設にいたときになんかこんなに何もできなくてごめんねっていうふうに職員さんに言ったことがあるんですけど。
そんな風に思われたくない。私はこの仕事で生活していますってぴしっと言われたことあったんですけど、病院でも、やってもらって当たり前、ご飯を食べさせてもらって当たり前とか、そういう風にはみじんも思ってないけど、なんか、ああすみませんね、いつもお手数、手を煩わせてって感じにも思ってないんですよ。
その違いって伝わるのかしら?
伝わらなくてもいいのかしら(笑)

私はご飯食べさしてもらって、自分で食べられるものは自分でご飯すくったりとかは自分で頑張ってできるようになったから自分で頑張ったりして、多少時間はかかってしまうけど、なんやろ、やらせてもらっている以上は自分で出来ることは自分でやりたい。汁もんはちょっと無理ですわ。とかだったら食べさせていただく。
それに対してありがとう、時間取ってもらってありがとう、っていう風には思っているし、いつもご飯食べさせてもらった方にはありがとうって自然に出るし、なんかこう私が言いたいことは言えてるねんけど、なんかなぁ、重ねて言いたいのはやってもらって当たり前ていうふうには思ってないし、アイデアとか、自分がやりたいこと、やってみたいことにチャレンジするのに人の手がいる、っていうことをお願いするっていうハードルも低いんですよ。やってみたいんよねーって思ったら、こんなんやってみたいんよねーってまず誰かに言ってみる。そんなん言ったら、迷惑かもしれへんとか、断られたらどうしようとか、そんなことはみじんも思ってないんですよ。それはやってもらって当たり前って思ってるわけじゃなくて、やってくれたら、手伝ってくれたらラッキー、手伝ってくれたらこの人とだったらこういうことをしたら面白そうとか、そんな感じ?(笑)伝わるかなぁ…

誰にでも彼にでも、こんなんやりたいから手伝ってくださいとか、こんなんやってみたいんですけどどう思いますかとか、そこはある程度言える人言えない人はもちろん、私もいますよ。
けどそれを自分の中だけで潰す、どうせ無理やろ、だれも手伝ってくれへんやろっていうふうに潰すのだけは、してない。

例えば、日常の生活のでも手伝ってくれたら、ありがとう、やってもらったらありがとうって、それってごくごく自然なことやって思ってるんですよね。だから、すみませんよりありがとうやし、すみませんって恐縮してるようでしてないんじゃないのっていう持論があったりなかったり(笑)私の奥ゆかしい日本人でいないといけないっていう教育は果たして令和の世界にも通じるのか?っていうとこ。
これやりたいんです、絶対やりたいんです、これ以外の案は絶対認めないんですっていう頑固さもなく、これやりたいんです…でもこれ言ったら笑われるよねっていう、そんなことお願いしたら迷惑よねっていうのもなく、なんかしなやかに生きたいんですよ。本当に。
なんかこうさ、上手に生きることが正しいわけでないけど、応用力のある人がいいな。応用力のある人にあこがれる。自分もそうありたいと思う。まぁ経験ですけどね。そんな風にとりとめもないですけど思っています。

こうやって毎日、一週間前に手術して、毎日毎日これ出来たあれ出来たって思いだそうとしてるんですけど、昨日初めて車いすに乗ったんですけど、昨日乗った感動より、今日も車いす乗れたんですけど、今日のほうが長時間乗っていろんなことできたんですけど、車いすに乗った感動ってやっぱり昨日のほうが大きかって、今日は乗れた自分、術後に乗れた自分を経験してしまっているから、感動もちょっと減ってる。あ、乗れた、やったっていろんな人に見てほしい、この姿を、いろんな看護師さんに見てほしい、主治医の先生に見てほしいって気持ちはどんどん湧いてきて、あれもしたいこれもしたいってなるけど、なんか初めて乗れた昨日思った感動は昨日の生ものだったんだなって思いました。

きっと私は明日も生きたいと思って今夜眠りにつくと思うんですけど、明日も生きたいのその、生、命に対する執着っていうのは手術の前の日が一番高かったっていうんじゃないかなっていう風に感じました。そんなことも今日はちょっと残しておきたいとおもいます。なんかまわりが騒がしいので今日はこの辺で。

とりとめのない話を、いつも書き起こしてくれる美穂さん。ありがとう!
そして、生々しい記録を読んでくださったあなた。ありがとうございます!

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