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【古代王朝】大和の王朝交代【天武天皇と則天武后】【文武天皇と文武王】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

※この文章はYouTubeで視聴することも出来ます。

こんにちは、今回は白村江の戦いと古代日本の王朝についてお話しさせて頂きます、宜しくお願い致します。

白村江の戦いというのはハクソンコウとも読みますが、663年朝鮮半島の白村江という場所で日本・百済軍が唐・新羅軍と戦い、大敗した戦争のことを言います。
倭国の水軍は百済を援助するため海を渡り戦いましたが、戦略ミスや内乱が起こり大敗。

その後日本は国内の軍事整備に力を入れ、国家一丸となり中央集権体制を強化したといわれています。
しかしこの戦いは不自然な点が多く、敗戦後の天皇の系譜においては天智天皇と天武天皇が兄弟になるなど、明らかな矛盾が生じてきました。

詳しく白村江の戦いについて見ていきます。
白村江と言う地名は、現在の韓国中西部に位置する錦江の旧名です。
白村江の戦いが始まる前、百済は唐と新羅の連合軍に打倒され、一度降服していましたが、日本にいた百済の王子(扶余豊璋)を帰国させ再び国の立て直しを始めます。
しかし帰国した王子は側近の将軍(鬼室福信)を殺害するなどして再建は上手くいかないまま再び唐・新羅と対戦することになります。
ここで倭国の水軍が百済援助に向かい白村江の戦いが始まります。

この戦いで百済が敗北すると、緩衝地帯が無くなり次は日本が侵略される可能性が高まります。

日本書紀を見ると、この戦いで倭国が派遣した水軍のトップは阿曇比羅夫(あずみのひらふ)という人物です。
彼は古代有力な海上部(あまべ)族が率いる阿曇水軍の族長でワタツミノ神を祖神として大和朝廷に仕えています。
日本各地の海人(あま)族を支配しており、当時170隻の船を率いていた水軍です。
白村江の戦いでは百済の王子豊璋を百済まで送り届けています。
これとは別動隊で、阿倍比羅夫(あべのひらふ)率いる阿部水軍も百済援助に向かったとあります。

しかし百済・倭国の水軍は敗北し、阿曇比羅夫は戦死、水軍は大破してその後歴史から消えています。
その一方で、別働隊で援助に向かった阿倍水軍は大きな被害がなかったにも拘らず敗戦後すぐに軍が増強されたと日本後紀にはあります。
同書には阿倍水軍は白村江の戦いで後詰に回されたとも書かれています。
しかし倭国の存続に関わる天下分け目の戦いに180隻率いる主力の水軍がなぜ後詰に回されたのでしょうか。

阿曇水軍170隻と一緒に戦っていれば戦力としては唐・新羅に劣らないはずです。
これは戦略ミスとして片付けられていますが、少し不可解です。

白村江の戦い以降、唐の侵略を警戒し、防衛の防人、情報伝達システムの烽(とぶひ)を
対馬や筑紫国などに配備し、水城を至る所に築いています。
※当時はまだ太宰府が機能していなかった、という否定論もあります。

唐を警戒する一方で唐の仕組みを取り入れ、強力な国家体制の実現、中央集権国家の実現に力を入れています。
白村江の翌年には冠位十二階の制度が新しく改正され710年には唐の都をモデルにした平城京が完成しています。
これらは遣唐使から教わったもので、結局唐による日本侵略はなかったとされていていますが、本当にそうなのでしょうか。

勝った国が負けた国に進駐するのは自然な流れですが、
敗戦した倭国をなぜ唐と新羅は占領統治しなかったのでしょうか。
白村江以降の天皇を見ていきます。
663年白村江の戦いの当時、天皇の皇位についていた者はいません。皇太子は中大兄皇子で後の天智天皇です。
この頃の日本書紀を読んでみます
「天智4年(665)2月、百済の百姓四百人を近江国神埼郡に居く」
「天智5年(666) 冬、京都の鼠、近江に向きて移る。百済の男女二千余人を以て、東国に居く」
「天智6年3月、都を近江に遷す。是の時に、天下の百姓、都遷することを願はず…失火の処多し」
とあります。

天智天皇は白村江の敗戦後、大和国から早々に退散し、百済人と近江に逃げて近江大津宮で正式に即位しています。
天智天皇が大和国を明け渡し、空っぽになった大和に新しく飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)という宮殿が建てられます。そこに即位したのが、第40代天武天皇とその皇后であり後の第41代持統天皇です。

※第39代弘文天皇は明治天皇が諡号を付けてから歴代天皇に加わります。

この2人が唐か新羅の人であれば敗戦後、大和は占領されていたことがわかるのですが、この頃の唐と新羅の史書に天武と思われる人物がいないか調べてみます。
すると旧唐書と言う唐の史書に武則天、またの名を則天武后という唐の女帝がいました。

則天武后は新羅の要望を聞き入れ、百済討伐のため軍を派遣したこと、白村江での戦い(唐では白江口の戦い)に勝利したことがなど書かれています。
則天武后は624年生まれの705年死去となっていて、天武天皇は生誕が不明、686年崩御となっています。
則天武后は白村江での勝利の後、目立った功績はありませんが、690年に帝位に就いて国号を「周」とした、とあります。
仮に則天武后と天武天皇が同一人物だとすると、則天武后は白村江で勝利したあと、空っぽになった大和を23年間占領し、686年唐に帰国、4年の準備期間を経て690年に唐に代わって新しい王朝、武周を建てたということになります。
則天武后の天武と天武天皇の天武、同じ時代に隣国のトップの名前がどちらも天武とついているのは偶然でしょうか。

次に第41代持統天皇ですが、「持統」という名前は体制、血統を維持するという意味の中国の言葉「継体持統」からきています。
持統天皇は女帝であり孫である第42代文武天皇に皇位を譲ったとありますので、文武という名前を、唐・新羅の史書の中で探してみます。
すると朝鮮半島の三国史記という書物に新羅第30代文武王という王がいます。在位期間が661年から681年なので白村江の戦いがあった663年は在位期間中です。
またしても隣国のトップ同士の名前が被っています。
文武王は626年に生まれ、没年が681年とあります。
そして日本の文武天皇は683年生誕し、707年24歳という若さで崩御しています。

もし仮に両者が同一人物であるとするなら、新羅の文武王は白村江での勝利後681年で新羅王を退位、2年後の683年に文武天皇として日本の歴史に登場し、707年の崩御まで天皇役を勤め、24歳ではなく81歳まで生きたことになります。
文武天皇といえば平城京の建設を提案した人物で、皇后であり後の元明天皇の代に遷都の詔が出されています。
平城京は710年、唐の都長安を模倣して大和国に建造されたことで有名ですが、近年の採掘調査により、平城京が建てられた土地には元々巨大古墳が存在していたことが明らかになっています。

平城京の大極殿や役所が建てられていた場所には元々、200m級の前方後円墳がありました。

さらに御所が建てられた場所には全長約114mの神明野(しめの)古墳が建造されていたことがわかっています。
破壊され下敷きにされた古墳からは円筒埴輪、動物埴輪などが出土していて5世紀前半頃、建てたれた古墳だと言われています。
宮内庁は平城天皇の御陵だとしていますが、時代が違います。
約300年前のご先祖さまの古墳を破壊し、その上にお城を築くとは何事でしょうか。
「続日本紀」和銅二年の条には、平城京建設において「古墳を破壊した場合には、祭祀を行って死者の魂を慰なぐさめること」という勅令を元明天皇が出したと書かれています。
神明野古墳を建造した政権と、それを破壊し上から平城京を建造した政権は別系統の王朝だと見ることが出来ます。
詳しくは概要欄に記載の奈良文化財研究所のHPをご覧下さい。

文武天皇の夫人である藤原宮子は藤原不比等の長女であり、史上初の太皇太后(たいこうたいごう)という尊称を与えられたことでも有名です。
藤原氏は白村江の戦い後、華々しく日本の歴史に登場していますが、760年に完成した伝記「藤氏家伝(とうしかでん)」という書物のタイトルから分かるように
藤原は藤氏(唐)ともいいます。伊勢神宮に伝わる光明皇后の著名は「藤三娘」となっていたり、九鬼文書の花押にも「藤」という一字が押されています。

藤原という氏は大化の改新の功績により天智天皇から賜ったとされていますが、天皇から賜った名前を省略するとは考えづらいので正式には「藤」が姓であった可能性が高いです。
大化の改新の詔は近年藤原京から出土した木簡により、話が大分盛られていたことが明白となっています。

これまでの話をまとめると、白村江の戦いで敗れたあと、天智天皇は都を大和から近江へ遷し、空っぽになった大和に入ってきたのが天武天皇という名の唐の則天武后で、その後持統天皇が藤原宮を建設し、文武天皇という名の新羅文武王が即位して唐の藤原氏が登場、という流れです。
そこからしばらく唐・新羅系の王朝が続き、第49代光仁天皇、第50代桓武天皇の時代に政権交代が起こります。

桓武天皇は平城京から長岡京に遷都しますが、この時期に藤原種継が暗殺され、藤原乙牟漏(おとむろ)、藤原旅子、藤原帯子(たらしこ)、など藤原家に不幸が続くのは、流行病や怨霊が原因だと言われていますが唐・新羅から百済に権力が移り変わったことも関連している可能性が高いです。

唐・新羅による占領はわずか70年程で終了しています。朝鮮半島では百済に勝利しましたが、日本列島では百済に下剋上された屈辱が、大陸側の史書に日本占領の詳しい記述がない理由なのかもしれません。

桓武天皇が即位した時
「神皇正統記」応神天皇の条にはこのように書かれています。

「昔、日本は三韓と同種なりということありし。彼書桓武の時代に焼き捨てられしなり」とあります。
「彼書」とは藤原仲麻呂が書いたとされる幻の書「日本書」を含む白村江の戦い以前の歴史書で、万世一系に不都合な歴史を焼き捨てたことが書かれています。

この時に継体天皇の子孫に当たる倭王の阿毎多利思比孤(あまたりしひこ)と和歌弥多弗利(わかみたふり)の名前も消され隋書の600年にある倭王の記述と辻褄が合わなくなりました。
またこの時万葉集は焚書にされず残されたため、上代日本語が一時八母音になるという謎の現象が起こり研究者を苦しめることになりした。


ここで一つ確認をしておきますが、新羅人の末裔は今の韓国人ではありません。
元々は日本人と近かったはずのY染色体は侵略、征服を重ねる度にシナ人やモンゴル人の染色体と置換に等しい混血をすることになります。

現代の韓国人のY染色体はモンゴルのタイプC(14%)やK(8%)中国人(北京)のタイプO(40%)の頻度が高く、征服者の男性遺伝子が大量に流れ込み、日本人特有のタイプDやO2b1は激減しました。
韓国人女性のmtDNAは縄文人と相同だということから平和的な混血ではなかったことがわかります。
朝鮮半島の歴史を見ると、統一新羅の時代までは北方民族の侵略を食い止めていましたが、その後、国土は侵害され彼らに平伏し命乞いをした人々はシナやモンゴルの属国として生存することが出来ました。
強い者には平伏し、長い物には巻かれるという選択が半島で生き残る唯一のすべだったのです。

日清戦争後、なぜ大韓帝国としての独立を拒んだのか、なぜ日本人の恩を仇で返す行動に出たのか、なぜすぐにバレる嘘をその場しのぎでつくのか、不思議で仕方が無かったのですが、このような歴史的背景があってのことで彼らにしてみては至極当然の行動をとった訳です。

という訳で新羅人の末裔は現在の朝鮮半島にはいません。
万葉集の言葉は沖縄語に似ていますが、契丹古伝をみると高句麗の太祖大王の時、キリコエアケが沖縄に入りキコエギミになったとあります。
これが後の狗奴国(クナ)になり、さらに新羅の朴氏に繋がります。

契丹古伝でいう「シウカラ」を一つの国家とした場合、唐の中にもシウカラの民族がいたため万世一系天皇の可能性は0ではありませんが、現在の日本を一つの国家とした場合、万世一系はフィクションだと言えます。
つまり古事記は偽書です。

古事記や日本書紀は素晴らしい史書ですが、これを史実として頑なに信じ続けていると一向に真実は見えてきません。
決められた書物を信じ続けるのは宗教と同じです。
本来の日本人は八百万の神に感謝し、八紘一宇の精神を持っていたのではないでしょうか。

今回は倭国から日本へ移行する過程で重要な海戦となった白村江の戦いについて見ていきました。
則天武后と天武天皇、文武王と文武天皇の名前が被っていることから、敗戦後日本は占領統治されていたのではないか、というお話をさせて頂きました。

古代史は膨大な学説があるので、今回の動画はそのうちの一つだと思って頂いてぜひ皆さんも調べて見てください。そしてコメント欄で共有してくれたら嬉しいです。

今回参考にした書籍も是非読んでみて下さい。
最後までご覧頂き、ありがとうございました。

📖この動画の参考書籍📖
佐治芳彦・吾郷清彦・鹿島曻著書「日本列島史抹殺の謎」
石原道博著書「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」
「新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝」
長浜浩明著書「韓国人は何処から来たか」
宇治谷孟著書続日本紀(上中下) 全現代語訳
中村啓信著書「古事記 現代語訳付き」
安本美典氏「先代旧事本紀現代語訳」
家永三郎著書「日本書紀」
黒板勝美著書「国史大系 日本後紀」
東洋文庫「三国史記1新羅本紀」

奈良文化財研究所
https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2015/08/20150803.html

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