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【殷王朝】イシン王朝の古代植民都市【アムル人とエブス人】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

※このnoteはYouTubeで視聴することも出来ます。

こんにちは、今回も引き続き殷王朝についてお話しさせていただきます、宜しくお願い致します。

前回の動画では漢の時代に編纂された[史記]の殷本紀を読んでいきましたが、この動画では殷がイシン王朝の古代植民都市であったことを殷墟からの出土品、甲骨文字などの史料を見ながら考えていこうと思います。

古代の植民都市というのは、戦前の植民地のような母体となる都市が領土を周辺に拡大していく形態ではなく、全く異なる場所に新たな都市国家を築いて、本国と植民都市は密接な関係が保たれていました。

植民都市の建設動機には様々な理由があげられますが、主な動機として遠隔地との貿易拠点を確立し、本国の繁栄に寄与することが目的であったといわれています。

【殷人には二系あった】
殷人の人類学的な研究はあまり進んでいません。発掘された人骨の数量があまりに多いため、当初から整理が進まなかったうえに、戦争や革命によって研究は中止された状態が長く続いていました。

出土した人骨の一部を測定した結果、現在の中国人と近いことがわかったそうですが、貝塚茂樹氏によれば、殷墟から出土した人面具の顔立ちから二系の殷人がいたといいます。

一種目の顔立ちは、ほっそりした顔付きで鼻筋も細く、眼は眼尻が上がった細長い形状をしています。
二種目は丸顔で鼻は広く、眼は大きなどんぐり眼をしています。

[史記]殷本紀では親子相続および兄弟相続による王位継承によって綺麗な一系統の系譜になっていますが、甲骨文字の解読が進み、王位は必ずしも実子相続が行われていたわけではなかったことが判明しています。

殷王室は少なくとも二つ以上の王族(氏族)からなっていたと現在では考えられています。

【殷の甲骨文字】
次に殷墟から出土した甲骨文字について見ていきます。

言語学者のガブリエル・マンデル氏は「幻のインダス文明」という書籍の中で、殷中期の原文字とインダス文字の比較研究を論述しています。

また、オーストリアの考古学者ハイネ・ゲルデルン氏も殷の原文字がインダス文字の一種であることを考証しています。

甲骨文字とインダス文字に共通する特徴として象形文字と表音文字という二つのグループから合成されていることを解説しています。

また、インダス文字が原エラム文字と非常によく似ていることは広く識られています。

甲骨文字の他に殷の青銅器銘文の大部分は図象によって占められています。

図象というのは身分や氏族の標識であることがわかっていて、種類は極めて多いのですが、その中でも特殊な職掌を表わす亜字形は、インダスの部族や商社を表す印章とよく似ていることが指摘されています。

インダスの印章はメソポタミア文明とインダス文明の間で交易を行なっていた海洋民族の文化です。

この交易の中心地となった土地のひとつとして「ディルムン」という土地が碑文などに登場しています。

ディルムンの正確な位置は明らかになっていませんが、世界遺産に登録されているバーレーン要塞はディルムンの港があった場所と推測されています。
そしてイシン第1王朝(イシン・ラルサ時代)になると複数あった交易の中心地はディルムンが独占するようになります。

殷の亜字形を含む印章文化は、インダス文明の他にもシュメールやエジプトにも繋がる文化であり、この文化を殷へ運んだ海洋民族が甲骨文字を持っていたと考えられます。

甲骨文字には農具や耕すという字が見られることから、殷人は酪農を行う民族ではなく農民だと主張する地理学者や、甲骨文字は南方性の特徴があるため南越で作られたと主張する中国人古代史家など、これまで様々な学説が論じられてきましたが、そもそも甲骨文字はインダス文字が伝来したものなので、甲骨文字から殷の文化を推測するのは難しかったことがわかります。


甲骨文には「象」の文字や象の形をした青銅酒器が出土しているため、古代の河南省に象がいたと主張する学者もいらっしゃいますが、河南省に象がいたとするのは現時点での生物学に反するので殷人が元々象が住む地域にいた可能性を考えるか、象を舟で輸送した可能性を考える方が現実的だといえます。

また、甲骨文字は主にカメの甲羅やウシの骨に刻みまれていますが、中国の考古学者陳夢家氏は小屯で出土した4330個の亀の腹甲はマレー半島にのみ存在する大亀だと述べていることから、殷はマレー半島と交流があったことがわかります。

【殷人と羌族】
甲骨文字で記された卜辞によると、人身供犠は頻繁に行われていたことがわかります。

その犠牲になったのは主に羌(ちゃん)・南・𠬝(ふく)のような異族でした。

羌族という民族は現在でも約30万人程が四川省で生活をしていますが古代において羌族はバンチェン文化圏にいてアーマ(爾瑪)と自称しています。

アーマの意味は「土着の人]です。

南というのは現在のロロ族、別名イ族たちの祖先で古代は河南南方の桐柏山脈一帯にいて南(なん)とよばれる鼓をもつ異族のことです。

魏晋南北朝時代には桐柏山脈を南下した長江の南側一体に居住していたことがわかります。

洞庭湖からその南にかけて銅鼓の出土することが多いですが、この銅鼓を木に繋げた形が「南」という文字の初形です。
※諸説あり


次に𠬝(ふく)という民族ですが、この民族については西周金文に「南国𠬝子」という異族の名前が見える以外、未だによくわかっていないのですが、羌や南と同じく、しばしば戈(ほこ)にかけられ人身供犠の犠牲になっていたことがわかっています。

殷人がこれらの民族を生贄にして異族と認識していたことからも、殷人の司祭者は土着の人ではなく移民だったと考えられます。


【殷の青銅器】
では殷の青銅器について見ていきます。

殷王朝の都跡とされる殷墟からは多種多様な青銅器が出土していますが、これらは殷の歴史の後半期に限られているため、殷代前期の完成された青銅器文化がいかにして発展してきたのかが問題となっています。

この問題は殷墟だけを調べていてもわからないため、殷以前の新石器時代の文化を含め、どこからどのようにして伝えられたのか調べる必要があります。

青銅器の中でも三足土器という3本の脚を有する特徴的な土器は、タイのサイヨク洞窟やカンチャナブリからも出土しており、放射性炭素年代測定によると紀元前1770年から±140年の土器であることがわかりました。

さらに中国黄河中流のヤンシャオ遺跡から出土した三足土器には渦巻文様が見られ、その特徴がバンチェンの彩陶土器と一致しています。

つまりタイ南部からマレー半島に至る三足土器の文化はメコン川上流のバンチェンとも繋がっていて、三足土器は紀元前3000年から2500年以降のバンチェンの彩陶文化やメコン文化の延長上にあると考えられていることから、これらの文化圏を祖地とする人々が殷人の中に入っていたことを示しています。

バンチェンというのは、タイ北東部にある小さな村ですが、そこから出土した遺跡は古代文明の遺跡としてユネスコ世界遺産に登録されています。

殷王朝の存在は殷墟の発掘と、殷本紀に登場する殷王の名前が甲骨に刻まれていることにより、実在が証明されたと主張されています。

甲骨文には報乙、報丙、主壬、主癸、祖乙など、殷本紀に登場する王の名が刻まれていますが、その一方で安陽市にある殷晩期の後岡(こうこう)遺跡から発掘された円型墓坑からは54体の殉死者が埋葬されてあり副葬された青銅器には「戌嗣子」(じゅつつぐこ)と記されています。

しかし殷本紀には「戌」という人物は登場しないので、殷本紀の記録と殷の遺跡が一致していないことがわかります。

甲骨文に刻まれた殷王とされる人物は、果たして古代の中国大陸に存在したのでしょうか。

殷の正式な国号は「商」であり、殷最後の首都は大邑商(だいゆうしょう)といい、殷の人は自らを「夷」と称しています。

「商」は表意であって殷の実体が商業者の集団移住地となっていたことが由来と云われています。

[逸周書]には《商 産里 百濮(ひゃくぼく)は象歯 文犀(ぶんさい) 翠(すい)を以て献となし》とあります。
百濮(ひゃくぼく)というのは中国の西南地方に住む民族集団のことで濮系民族や三濮とも云い[唐書]南蛮伝( には《三濮は雲南に在り》と記されているため、雲南周辺にいたタイシャン族(白夷)の一派ではないかともいわれています。

台湾・中国の人類学者である李済氏によれば「百濮は古代は長江流域の各地に分布し、現代は漢民族と混血した者が多い」と述べています。

タイ東北部やミャンマー東部、中国南端の雲南辺りはバンチェン遺跡などによって、ひとつの文化圏であったことがわかります。

この文化圏にいた《商 産里 百濮》という民族が長江流域に分布して、その中の商が殷王朝に関与していたと考えられます。

バンチェン文化圏から中国内陸へ文化が広がったのは、「バンチェン丘陵における層位学的序列の施策表」を見るとわかります。

この表で1層と2層に分類されている黒陶や3層に分類されている青銅は中国のものよりも古いため、タイやミャンマーの文化が中国内陸にも伝播したと考えられます。

殷人は自らを「夷」と称していていましたが、「夷」という言葉の元来の意味を調べていくと、、

ベトナムの古文書[大南列伝]には《夷は水を意味する》とあったり

[越絶書]には《之を夷に習う 夷は海なり》という箇所があり

民俗学者の松本信廣氏は「夷」をモン・クメール語の海及び水であると論じています。

さらに「夷」は銕(てつ)の略字でもあるので、「夷」は鉄の文化を持つ海人、のようなイメージが出来ると思います。

そして甲骨文字とインダス文字、原エラム文字の関係を考えると、殷人は貿易を目的とした海洋民族で本国は原エラム文字やインダス文字を知っていたということ、

そして当時、東南アジアや中国に貿易基地となる古代植民都市を築けるだけの財力と航海技術を有していた勢力が殷王朝の正体となるわけですが、

この条件を満たす勢力を世界史の中で探すと浮かび上がってくるのが
イシン第二王朝(バビロン第4王朝)です。

殷の人々の正体はイシン第二王朝(バビロン第4王朝)の下で海上貿易商人として活躍していたエブス人やカルデア人の支族アムル人ではないでしょうか。

日本人が「夷」という漢字を「エミシ」や「エビス」と読んでいたのは当時夷と呼ばれていた人々がエブス人だったことを示しているのかもしれません。

殷人には二系あった、というお話をしましたが、職章を表す複数の亜字形が発見されていることと合わせると、殷王朝というのはイシン王朝の商人やバンチェン文化圏にいた民族、そして現地のモンゴロイド民族などから構成される多民族王朝だったのではないでしょうか。

人面具の細面の人々は、古代エジプト王の肖像にも見られることから、エブス人の顔だったのではないでしょうか。

【まとめ】
殷墟から出土した人面具、甲骨文字や銘文の亜字形、青銅器などを調べていくと、[史記]殷本紀とは違った殷王朝の実体が見えてきました。

殷の人々の正体とは、イシン王朝の下で古代植民都市を築き、海上貿易をしていたエラム人やカルデア人の支派アラム人、そしてバンチェン文化圏から中国大陸へ入っていた民族や原住民モンゴロイドの連合体だったのではないか、というお話しでした。

紀元前1500年前後にはインダスの河谷にカルデア人の貿易商社が存在していたことから、貿易船の出発地はインダス河谷だった可能性があります、そうすると殷はインダスかイシンの漢訳だったことがわかります。

殷は本国のイシン王朝が滅びた後、摩天嶺辺りまで逃れ、箕子朝鮮を建てます。

箕子は殷最後の国王である紂王の叔父、又は弟、又は兄とされていて、紀元前7世紀頃には彼らの末裔が北九州から朝鮮半島南部、種子島などに後退しています。

箕子朝鮮は[契丹古伝]では辰沄殷(しういん)と記されていて、この氏族が日本列島に[宮下文書]を持ち込んだと思います。

古代史には膨大な学説がありますので、今回の内容はそのうちの一つだと思っていただいて、是非皆さんも調べてみてください。

下記の参考書籍もぜひ読んでみてください。最後までご覧いただきありがとうございました♡*

📖参考書籍📖
司馬遷著 野口定男訳「史記列伝」
鹿島曻著書「中国神話ルーツの謎」
貝塚茂樹著書「古代殷帝国」
伊藤道治著書「図説中国の歴史〈1〉」
浜名寛祐著書「契丹古伝」
鹿島曻著書「倭人興亡史」「バンチェン倭人のルーツ」
E・ドーフルホーファー著書/矢島文夫・佐藤牧夫翻訳「失われた文字の解読 Ⅰ」
渡辺素舟著書「中国古代文様史 上」
ガブリエル・マンデル著書 坂斉新治訳「幻のインダス文明」
ハイネ・ゲルデルン著書 小堀甚二訳「東南アジアの民族と文化」

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