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【殷王朝】始祖誕生から滅亡まで【商】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

※このnoteはYouTubeで視聴することも出来ます。

こんにちは、今回は殷王朝についてお話しさせていただきます、よろしくお願い致します。


殷王朝とは、中国大陸にあった古代王朝で、殷の正式な国号は「商」と云います。
殷最後の首都は大邑商(だいゆうしょう)と云い、殷の人は自らを「夷」と称しています。

「夷」という言葉の元来の意味を調べていくと、ベトナムの古文書[大南列伝]の水舎火舎列伝には《夷は水を意味する》とあったり
[越絶書]には《之を夷に習う 夷は海なり》という箇所があり
民俗学者の松本信廣氏は「夷」をモン・クメール語の海及び水であると論じています。

さらに「夷」は銕(てつ)の略字でもあるので、「夷」は鉄の文化を持つ海人、のようなイメージが出来ると思います。

そして商は貿易などを表すので、殷王朝の人々は海洋民族として貿易を行っていた可能性があります。

今回は殷王朝の実態を知る上で基礎知識となる[史記]の殷本紀を系譜と合わせて見ていきます。

【現代語訳】
殷の契(せつ)は母は簡狄(かんてき)と曰い 有娀(ゆうじょう)の女(むすめ)にして 帝嚳(ていこく)の次妃であった
一族の婦人三人で川を浴(ゆあ)みしている時 玄鳥(つばめ)が卵を墜としたのを見て
簡狄が取って之を呑むと 妊娠して契を生んだ
契は成長して禹を佐(たす)け 治水に功績した
そこで帝舜が契に命じていった
「百姓親しまず〈中略〉汝司徒と為りてつつしんで五教を天下に敷きひろめよ」
契は商に封ぜられ 子氏という姓を賜った
契は唐 虞(ぐ) 大禹の時代に興り 功業は百官のあいだに著しく 百官はそのために安定した
契が没して子の昭明が立った 昭明が没して子の相土立つ 相土(しょうど)没して子の昌若立つ 昌若没して子の曹圉(そうぎょ)立つ 曹圉没して子の冥(めい)立つ 冥没して子の振立つ 振没して子の微立つ 微没して子の報丁立つ 報丁没して子の報乙立つ  報乙没して子の報丙(ほうへい)立つ 報丙没して子の主壬(しゅじん)立つ 主壬没して子の主癸(しゅき)立つ 主癸没して子の天乙(てんいつ)立つ 是が成湯(せいとう)である

契(せつ)から湯(とう)に至るまで八たび遷り湯の時代に始めて亳(はく)に居住したが
そこは先王の帝嚳(ていこく)の都があった場所だったので それに従って亳を都とした
そして帝誥(書物)を作った
湯は諸侯を征した葛伯が祭祀を行わなかったので之を伐った
湯曰く「人は水を視て形を見 民の状態を視て治不を知る」

伊尹(いいん)曰く「〈中略〉国に君して民を子とせよ善を為す者は皆王官に在れ勉めよ」

湯曰く「汝能(よ)く命をつつしまねば大いに罰殛を加え赦(ゆる)しはせぬ」そして湯征(書物)を作った

伊尹は名を阿衡(あこう)といった 阿衡は湯に仕えようとしたが つてがなかった
そこで有莘(ゆうしん)氏の媵臣(ようしん)と
※ 媵臣=嫁ぐ女性に付き従う臣
為り鼎や俎(まないた)を背負ってついていき 美味しい料理を以て湯を説き
ついに王道を実現した
〈中略〉
夏の桀は人民を苦しめる虐政を行い 色欲にふけっていた
諸侯の昆吾氏が反乱を起こした
湯は征討軍を興し諸侯を統率し 伊尹は湯に従った 湯は自ら鉞(まさかり)を握り昆吾を伐ち遂に桀を伐った

湯(とう)曰く「〈中略〉予は上帝が夏を咎(とが)める意思をかしこみ その罪を正さねばならない今 夏は罪多く天は我に命じて之に誅罰を加えさせるのである
〈中略〉
これを軍に告令し湯誓(とつせい)とした そして湯曰く「吾は武王と号することにしよう」

桀(けつ)は有娀の虚に敗れて鳴條(めいじょう)に敗走して 夏の軍は大敗した
湯は遂に三ソウという国を伐ち その宝玉を奪った 義伯 仲伯は典宝(書物)を作った
湯が夏に勝つと群臣は夏の社を商に遷すことを望んだが 湯は不可なりとして夏社を作った
伊尹(いいん)は天下に勝利を報じた 是に於いて諸侯はことごとく湯に服従した
湯は天子の位をふみ海内(かいだい)を平定した

湯が泰巻陶(たいけんとう)まで帰ってくると中キ(湯の左相)が誥(こう)を作って夏の天命が衰えたので これを絀(しりぞ)けて亳(はく)に帰還し湯誥(書物)を作った

〈中略〉

伊尹が咸有一徳 (書物)を作った
咎単(こうたん)が明居(書物)を作った
湯は正朔(せいさく)を改め服の色をかえて白をたっとび 朝廷の会合も白昼に開くようにした
湯が崩じると太子の太丁は即位せずに亡くなったので 太丁の弟外丙(がいへい)を立てた 是を帝外丙という  
帝外丙は位について三年で崩じたので 外丙の弟中壬(ちゅうじん)を立てた 是を帝中壬という
帝中壬は位について四年で崩じた そこで伊尹は太丁の子の太甲を立てた 太甲は成湯(せいとう)の適長孫であって 是を帝太甲という

帝太甲の元年に伊尹は伊訓 肆命(しめい)徂后(そこう)(全て書物)を作った
帝太甲は即位して三年 暴虐にして湯の法に遵(したが)わず徳を乱したので 伊尹は之を桐宮(とうきゅう)に三年間追放した
伊尹は政(まつりごと)を摂行して国務にあたり諸侯を入朝させた
帝太甲は桐宮に居ること三年 過ちを悔い自ら責め善心に立ち返った そこで伊尹は帝太甲を迎えて政権を返した
その後帝太甲は徳を治めたので諸侯はみな殷に帰し 百官は寧(やす)らかであった
伊尹は之を喜んで太甲訓(書物)を作った 帝太甲を讃えて太宗と称する

太宗が崩じて子の沃丁が立った帝沃丁の時に伊尹が崩じた 伊尹は亳(はく)に葬られ咎単が伊尹の善行 実績をたたえて沃丁(書物)を作った
沃丁が崩じて弟の太庚が立つ 是を帝太庚という 帝太庚が崩じで子の帝小甲が立った
帝小甲が崩じて弟の雍己(ようき)立つ 是を帝雍己という
殷の政道が衰えて諸侯のなかには入朝しないものがあった
帝雍己が崩じて弟の太戊が立った是を帝太戊という 帝太戊が立つと伊陟(伊尹の子)が相となり亳に奇怪なことがおこった
それは桑と穀が朝廷の庭に抱き合って生えた その日の夕方には両手で囲むほどの太さになり帝太戊は懼(おそ)れて わけを伊陟(いちょく)に問うた

伊陟曰く「臣は怪しいことは徳に勝たずと聞いております陛下の政(まつりごと)に欠陥があるのではないでしょうか どうか陛下には御徳をお修めください」

太戊が之に従うと怪しい木は枯れて無くなった巫咸(ふかん)が王家を治めて成果をあげたので伊陟(いちょく)は咸艾(かんがい)と太戊(書物)を作った
帝太戊は伊陟を宗廟(そうびょう)(祖先を祀る建物)に賛し「臣下とは思わない」と言ったが伊陟は辞退したので原命 (書物)を作った
殷は復興して諸侯は殷に帰した 故に太戊を中宗と称す
中宗が崩じて子の仲丁が立った 帝仲丁はゴウに遷都した 河亶甲(仲丁の弟)は相に居住し祖乙は邢(こう)に遷った 帝仲丁が崩じ弟の外壬が立つ是を帝外壬という

仲丁について記録した書は欠けていて伝わっていない
帝外壬が崩じて弟の河亶甲が立った 是を帝河亶甲という 河亶甲の時に殷は再び衰えた
河亶甲が崩じて子の帝祖乙が立った 帝祖乙が立つと殷は復興した 巫賢(ふけん)がよく国政を遂行した
祖乙が崩じて子の帝祖辛が立つ 帝祖辛が崩じて弟の沃甲が立つ 是を帝沃甲という
帝沃甲が崩じて祖辛の子である祖丁を立てた 是を帝祖丁という 帝祖丁が崩じると沃甲の子南庚が立った 是を帝南庚という
帝南庚が崩じて帝祖丁の子陽甲が立った 是を帝陽甲という 帝陽甲の時殷は衰えた

仲丁以来嫡子(ちゃくし)を廃して諸々弟や子を立てたが 弟と子は帝位を争い相い 代わりて立ち九世に比るまで乱れた
是に於いて諸侯は入朝しなくなったのである
帝陽甲が崩じ 弟の盤庚が立った 是を帝盤庚という
盤庚の時殷は黄河の北に都があったが 盤庚は河を渡って南下し 成湯の故居に再び都を定着した それまで殷は五度も遷都して 決まった都がなかった
殷の民は安らかに生活できるようになり殷の政道は復興し諸侯は来朝するようになった
これは成湯の徳に従ったからである 帝盤庚が崩じて弟の小辛が立った 是を帝小辛という
帝小辛が立つと殷はまた衰えた

そこで百官は盤庚を追想して盤庚三篇(書物)を作った 帝小辛が崩じて弟の小乙が立った 是を帝小乙という

帝小乙が崩じて子の帝武丁が立った 帝武丁は位につくと殷を復興しようと思ったが 三年間は国政について何も言わず 政事はすべて冢宰(チョウ・サイ)という百官の長に決定されるようにして国風を観察した
ある夜武丁は夢の中で聖人にあった
名を説(えつ)と曰う 夢でみた聖人の説を百工を動員して探し回ると説を傅険(ふがん)の中から探し出した
是の時説は囚人で傅険(ふがん)で土工に従事していた 武丁が確認すると果たして聖人であったので宰相に登用した

殷は大いに治まった 故に傅険に因んで姓とし傅説と号した 帝武丁は政(まつりこど)を修めて徳を行った
〈中略〉
天下はみな喜び殷道は復興した
武丁が崩じて子の帝祖庚が立った 祖庚は武丁が雉(きじ)を契機として徳を治めたのを讃え その廟(びょう)を立てて高宗という称号をたてまつり 高宗肜日及び高宗之訓(どちらも書物)を作った
帝祖庚が崩じて弟の祖甲立った 是を帝甲という帝甲は淫乱だったので殷はまた衰えた 帝甲が崩じて子の帝廩辛(ていりんしん) が立った
帝廩辛が崩じて弟の庚丁が立つ 是を帝庚丁という 帝庚丁が崩じて子の帝武乙が立つ 殷はまた亳を去り黄河の北にうつった 帝武乙は無道であった

〈中略〉

帝武乙が黄河と渭水(いすい)の間で狩猟した時 にわかに落雷があり 武乙は雷にうたれて亡くなった
子の帝太丁が立つ 帝太丁が崩じ子の帝乙が立つ 帝乙が立って殷は益々衰えた
帝乙の長子は微子啓(びしけい)と曰う 啓の母は賎しかったので啓は嗣子になれなかった
少子を辛といったが辛の母は正后だったので 辛が嗣子となった
帝乙が崩じ子の辛が立った 是を帝辛という 天下の人々は之を紂(ちゅう)とよんだ

帝紂は〈中略〉酒を好み淫楽して妲己(だっき)を愛し妲己の言うことには従った
〈中略〉
そして鬼神をあなどり 酒や戯楽(ぎがく)で遊びふけたため 民は怨み諸侯は畔(そむ)く者があった
すると帝紂は刑罰を重くし 炮烙(ほうらく)の法を作った
〈中略〉
当時殷では西伯昌 九侯 鄂侯を三公としていた
九侯には美しい女(むすめ)があり 紂の部屋に入っていた

九侯の女は淫楽を好まなかったので 紂は怒って之を殺し九侯をも醢(ししびしお) にした
鄂侯はこのような紂の非を諫めて 言葉をつくして強く争った すると紂は鄂侯をも脯(ほしにく)にしてしまった
西伯昌は之を聞いて窃(ひそ)かに嘆息した 崇侯虎(しゅうこうこ)がこのことを紂に密告した 紂は西伯を羑里(ゆうり)に囚らえた
しかし西伯の臣の閎夭(こうよう)達が美女 奇物 善馬を紂に献上すると 紂は西伯を釈放した
西伯は羑里(ゆうり)を出ると 紂に洛西の地を献じて炮烙(ほうらく)の刑を除去することを請うた 紂は之を許し弓矢 斧鉞を賜うて帝の命にそむくものの征伐を許し 西伯に任じた

〈中略〉

西伯は帰国してから陰かに徳を修め善を行った
諸侯は多く紂に叛(そむ)いて西伯に帰属した 西伯の勢力は滋々(ますます)大きくなり 紂は是れに由り次第に権威を失った
王子比干が諫めたが聴きいれなかった
〈中略〉
西伯が崩じた後に周の武王が東征して孟津(もうしん)(河南省)に至る 殷に叛(そむ)いて周のもとに集まった 諸侯が八百もあった

諸侯は皆いった「紂は伐つべきです」
武王曰く「未だ天命を知らず」そして引き返した 紂は愈々(ますます)淫乱して止まず 微子啓がしばしば諫めたが 聴き入れなかったので太師・少師と相談して遂に国外に去った

比干は強く紂を諫めたが紂は怒って比干を剖(さ)き その内臓をみた
※[史記]宋微子世家には《紂王は聖人の心臓には7つの穴があるはずだと言って解剖した》とあります。

箕子は懼(おそ)れて狂気をよそおって奴隷となった しかし紂は之を囚えた
周の武王は遂に諸侯を率いて紂を伐った 紂も軍隊を出動させ牧野にふせいだ
甲子の日 紂の軍は敗れた 紂は走り逃げて鹿臺(ろくだい)に登り 宝玉の衣をきて火中に身を投じて死んだ
周の武王は遂に紂の頭を斬って 白旗にかけ妲己を殺し 箕子の囚われを放った
比干の墓をつくり 商容の住んでいる里の門に頌徳(しょうとく)のしるしを立てた
また紂の子の武庚禄父(ぶこうろくほ)を封じて殷の先祖の祭祀をつづけさせ 盤庚の政治を修め行わせたので 殷の民は大いに悦(よろこ)んだ

是に於いて周の武王は天子となったが その後帝号を一段落として王と号するようになった
そして殷の後裔を封じて諸侯と為し 周に属せしめた 周の武王が崩ずると武庚は管叔(かんしゅく)・蔡叔(さいしゅく)とともに反乱を興したので 成王は周公に命じて之を誅滅した
そして微子啓を宋に立てて殷の後を継がせた〈中略〉
太史公曰く詩経の頌(しょう)によって契のことを叙述し 成湯より後のことは書詩から資料をとった
契は子姓であったが その後世子孫はあちこちに分封され その国名を姓とした
それには殷氏・來氏・ 宋氏・空桐氏・稚氏・北殷氏・目夷氏などがある

孔子曰く「殷の天子の車は質素ながら丈夫でよい』また殷では色は白を尊んだ

とあります。


所々中略しましたが、以上が[史記]の殷本紀のほぼ全訳です。


一通り読んでみて皆さんは殷王朝についてどのように思いましたか?

次回は、殷王朝の実態は実はイシン王朝の貿易拠点として発展した古代の植民都市だった、というお話しをしたいと思います。

最後までご覧いただきありがとうございました⭐︎*

📖参考書籍📖
司馬遷著 野口定男訳「史記列伝」
鹿島曻著書「中国神話ルーツの謎」
貝塚茂樹著書「古代殷帝国」

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